雲形紋章

 日没後に出はじめた風は寝る時間が近づく頃には異常な激しさを伴って吹き荒れた。突風が書斎の窓を打って、またもやがたがたという音がし、暖炉からは何度も煙がふっと部屋の中に吐き出された。

 「わたしは起きてブランダマー夫人を待っています」と主人が言った。「でもあなたは床に就いたほうがいいでしょう」ウエストレイが時計を見るとあと十分で夜中の十二時を指すところだった。広間に入って階段を上がるとき、冷たく吹きつのる風がいっそう強く身体に感じられた。

 「嵐の夜になりましたね」気圧計の前に一瞬立ち止まりながらブランダマー卿が言った。「でもこれからもっと荒れるでしょう。気圧計がとんでもない下がり方をしている。カラン大聖堂の塔には万全の処置をほどこしておかれたでしょうね。この風は弱い部分に容赦なく襲いかかりますよ」

 「このくらいでは聖セパルカ大聖堂はびくともしないと思います」ウエストレイは半ば無意識にそう答えた。仕事のことすら集中して考えることができないようだった。

 大きな寝室には明々と火がともっていたが、肌寒かった。ドアに鍵をかけ、炉端に安楽椅子を引き寄せ、考え事をしながら長いこと座っていた。自覚的に信念に背いて行動したのは生まれてはじめてのことで、そうした場合につきものの反動と後悔が彼を襲った。

 これほど深い憂鬱がまたとあるだろうか。はじめて経験するこの魂の日食ほど暗い夜があるだろうか。正義の本能を黙らせる、このはじめての抑圧ほど暗い夜が。彼は真実を隠すことに手を貸し、もう一人の男の悪事に協力した。その結果、節義という足がかりを失い、誇りを失い、自信を失ったのだ。ここまで来たら、かりに可能だとしても、決心を翻そうとは思わない。しかし、一生背負っていかなければならない罪の秘密が彼の身体にずしりとのしかかってきた。この重さを軽減するために何かをしなければならない。心の苦しみを和らげるために行動を取らなければならない。彼はうちひしがれた。中世であれば修道院がその救済手段になっていただろう。彼は罪を清めるためにすぐにでも犠牲を捧げ、大切なものを投げだす必要を感じた。そのとき何を犠牲にしなければならないのか、彼は悟った。カランでの仕事を辞めなければならない。自分にそう告げるだけの良心がまだ残っていたことに彼は感謝した。あの男の金で行われる仕事には、もはや従事することはできない。会社から解雇されることになろうとも、生計の道が断たれることになろうとも、カランでの仕事を辞めるのだ。彼はイングランドといえども彼とブランダマー卿を包みこむほど広くはないような気がした。罪の共謀者とはもはや会うわけにはいかない。目を合わせると相手の意志が彼の意志をさらなる悪へと強制するように思われ怖かった。明日さっそく辞職願いを書こう。これなら積極的な犠牲、痛々しいけれども更正へむけての確かな折り返し地点、ここから出発すればいつかは自尊心と心の平安をある程度は取り戻せると期待のできる転換点になるだろう。明日さっそくカランの仕事を辞任しよう。そう思ったときいちだんと激しい風が彼の部屋の窓を叩き、彼は聖セパルカ大聖堂の塔のまわりに組んだ足場を思い出した。ひどい夜だ。アーチの細い曲線は巨大な塔がその上で揺れているこんな夜でも持ちこたえてくれるだろうか。いや、明日辞任するわけにはいかない。それは職務から逃げ出すことだ。塔が安全になるまではそばにいなければならない。それこそが彼の第一の義務だ。それが済んだらすぐに辞任しよう。

 しばらくして彼は床に就いたが、眠ることができず、理性の支配していない夢うつつの状態は、外の風よりもっと狂おしい考えを彼の頭に浮かびあがらせた。彼はブランダマー卿の保証人となり、その罪の重荷を肩代わりしたのである。カインの刻印を押されたのは彼のほうであり、それを誰にも知られないよう口を閉ざして隠していなければならないのだ。彼はカランを逃げ出し、荒野にただ一匹放たれた贖罪の山羊として、重荷を背負い、残りの人生を過ごさなければならない。

 眠りの中で「幽暗くらきにあゆむ疫病えやみ」(註 詩篇から)は重く彼にのしかかった。彼は聖セパルカ大聖堂にいた。そしてオルガンのある張り出しから血が彼の上にしたたり落ちた。どこから落ちてくるのかと顔を上げると、彼を粉みじんに潰さんと、四つのアーチが崩れ落ちてくるのだった。彼はベッドの上に跳ね起きると、灯りをつけて身体に赤い染みがないことを確認した。夜明けとともに彼は次第に平静になった。狂おしい幻想は消えたが、冷酷な事実は変わらなかった。彼は自分を辱めたのだ。自分とは関係のない悪の秘密にむりやり自分を関わらせ、今や永遠にその秘密を守らなければならないのだ。

 いや、違う。僕は本当に自尊心を失ったのか。本当にそれほど罪深い秘密が存在するのか。すべては僕の頭が生み出したまぼろしではないのか。

 ウエストレイは居間でブランダマー夫人に出会った。ブランダマー卿は前の晩、彼女の帰りを広間で迎えた。顔は青ざめていたものの、彼女は夫が二言三言話しかけてくるよりも先に、それまでの数日間、彼の心に重く垂れこめていた心配の雲が、今はすっかり吹き払われてしまったことを見て取った。ミスタ・ウエストレイは用事のためこちらに来られたのだが、嵐が荒れ狂っているので一晩泊まっていくよう説得したのだ、彼はそう事情を説明した。建築家は偶然手に入れた絵を持ってきてくれた、先代のブランダマー卿の肖像画で何年も前にフォーディングから紛失したものだ、取り戻すことができたのは実に喜ばしい、ミスタ・ウエストレイのご尽力には大いに感謝しなければならない。

 その日までいろいろな事件に取り紛れてウエストレイはブランダマー夫人の存在を忘れかけていた。絵の発見以来、かりに彼女のことを思い浮かべることがあったとしても、それは深く傷つき苦しむ女の姿だった。しかし今朝、彼女は驚くほど輝かしい満足の表情を浮かべてあらわれ、つい昨日、彼はもう少しで彼女を絶望の淵にたたき落とすところだったのだと思い身震いした。結婚してから一年間、栄養に気を配った食事をしてきたせいだろう、顔も身体もふっくらしていたが、それまでずっと彼女の特徴だった優雅さは損なわれていなかった。彼女はそのあるべき地位に就いたのだと彼は思い、彼女の振る舞いの気高さを見て、どうしてその出生の真実にもっと早く気がつかなかったのだろうと不思議な気がした。彼女は再会を喜んでいる様子で、握手したときも以前の関係を忘れていないといったようにほほえみ、少しも当惑を見せなかった。彼女が彼のために食事を運んだり、手紙を持ってきたのだとは、とても信じられなかった。

 彼女は、興味深い家族の肖像を取り戻してくれたそうですね、と丁寧に話しかけたのだが、思いもかけず相手がうろたえたので、自分の肖像画をどう思いますか、と質問して話題を切り替えた。

 「昨日ご覧になったと思いますわ」何のことか分からない様子だったので彼女はそうつづけた。「家に届いたばかりで、細長い陳列室の床に立てかけてあるんです」

 ブランダマー卿は建築家のほうを見て、彼の代わりに、ミスタ・ウエストレイはまだご覧じゃないのだ、と言った。それから部屋の中をしんとさせるような落ち着いた声で説明した。

 「表を壁にむけてたてかけてあったのです。額縁もなく、壁にかけていない状態でお見せするわけにはいきません。さっそく額縁を作らせ、かける場所を決めなければ。陳列室の絵を何枚かずらす必要があるでしょうね」

 彼はスネイデルス(註 フランドルの画家)やワウウェルマン(註 オランダの画家)のことを語り、ウエストレイは申し訳ばかりの関心を示したが、実のところ昨日の恐るべき会見の際、時間を計るのに役立った、床に置かれた額なしの絵のことしか考えられなかった。彼はこう推測した。ブランダマー卿はみずから絵の表を壁にむけたのだろう、そうすることで闘争を有利に進めることができるかも知れない武器を意図的に放棄したのだ。ブランダマー卿はアナスタシアの肖像が敵の心に過去の記憶を呼びさまし、自分を援護することをわざと拒否したのだ。「このような加勢も、そのような守り手も必要なときではない」(註 ウェルギリウス「アエネーイス」から)といわんばかりに。

 ウエストレイの憔悴した様子を主人は見逃さなかった。建築家はまるで幽霊の出る部屋で一夜を明かしたようなありさまで、ブランダマー卿は彼が感じている良心の呵責が容易に消えるようなものではないことや、それが墓の中でじっと静かに横たわっていそうにないことを知っていたから驚きはしなかった。彼はウエストレイの出発まで残されたわずかな時間を屋外で過ごすのがよいだろと思い、庭を散歩しましょう、と提案した。庭師の報告によると、昨夜の大風で植木にかなりの被害が出たようです、と彼は言った。南の芝地に生えていたヒマラヤ杉の梢が折れてしまったとか。ブランダマー夫人は、ぜひお供させてください、と言った。彼らがテラスの階段を下りているとき、乳母が赤ん坊の跡継ぎを彼女のところに抱いて連れてきた。

 「あの大風は台風だったのでしょう」とブランダマー卿は言った。「吹きはじめたのも止んだのも突然でしたね」

 朝はしんと静かで、陽の光に満ち、昨夜の混乱と比べるといっそう美しく思われた。雨後の空気は澄み切って冷たかったが、小道や芝生には折れた大枝小枝が散乱し、まだ早い落ち葉が一面を蔽っていた。

 ブランダマー卿は庭の改造について、今していることや、これから予定していることを説明した。魚を入れ直すつもりの古い養魚池や、祖母が造り、死後もそのまま残されている古風なレディース・ガーデンを指さした。彼はウエストレイから受けた計り知れない恩をおろそかに思うつもりも、ないがしろにするつもりもなかった。建築家を庭に案内し、先祖が代々所有してきたこの場所を見せ、最近になってようやく固まった将来の計画を話すことで、彼はいわば感謝の意を伝えていたのであり、それはウエストレイにもよく分かっていた。

 ブランダマー夫人はウエストレイのことが気がかりだった。ふさぎこみ、居心地悪そうにしているように見えたのだ。夫の心から雲が消え去った喜びのあまり、彼女は誰もが自分と同じように幸せであって欲しいと思った。そこで屋敷に戻る道すがら、優しい思いやりからカラン大聖堂のことを話しはじめた。もう一度あの古い聖堂が見たくてたまりませんの。ミスタ・ウエストレイがいつか案内してくれるならこんなにうれしいことはないのですけれど。修復工事はまだ時間がかかるのでしょうか。

 彼らは三人並んで歩くには狭すぎる小道を歩いていた。ブランダマー卿は後ろに下がっていたが、二人の会話が聞こえるところにいた。

 ウエストレイは口早に答えたものの、自分でも何を言おうとしているのか分かっていなかった。修復工事はどうなるかよく分かりません——その、終わるどころか、実を言うと相当時間を食いそうなんですよ。しかしわたしが監督者としてあそこに残ることはないでしょう。そのう、今の仕事を辞めるつもりなので。

 彼は急に黙りこみ、ブランダマー夫人はまたもや不適切な話題を選んだことを知った。彼女はその話を止めて、今度お暇ができたらお知らせのうえ、もっと長く滞在してくださいね、と言った。

 「無理だと思います」とウエストレイは言ったが、親切心から誘ってくれたのにぶっきらぼうな、不作法な返事だったと思い、彼女のほうを振りむいて真剣そのものの表情で、ファークワー・アンド・ファークワーを辞職するつもりなのだ、と説明した。この話題もつづけるわけにいかず、彼女はただ残念ですわ、とのみ言い、心からそう思っていることを目で伝えた。

 ブランダマー卿は今聞いた話に胸を痛めた。ファークワー・アンド・ファークワーのことも、ウエストレイの地位や将来性のことも多少は知っていた——それなりに収入があり、会社の中では出世するだろうと思われていることも。この決断は昨日の会見の結果として突然にくだされたものに違いなかった。ウエストレイは贖罪の山羊のように他人の罪を頭に負い、荒野に放たれようとしている。建築家は若くて未熟だ。ブランダマー卿は静かに彼と話がしたかった。おそらく自分がすべての費用を醵出しているカラン大聖堂の修復工事に、ウエストレイはこれ以上携わることができないと感じたのだろう。しかしなぜ一流の会社を辞めてしまうのか。健康状態がよくないとか、神経衰弱であるとか、肉体だけでなく精神の窮状からも逃れる道を切り開く医者の命令というやつを使えばいいではないか。スペインへ考古学の旅行に行ったり、地中海でヨットを乗り回したり、エジプトで冬を過ごしたり——これらはみんなウエストレイの好みに合うはずだ。非の打ち所なき薬草ネペンテスは道ばたのどこにでも見つけることができる。楽しいことをして忘れるべきなのだ。彼はウエストレイに、いつか忘れるだろう、あるいは思い出すことに慣れてしまうだろう、と安心させてやりたかった。時間は心の傷や肉体の傷を癒すように、良心の傷をも癒す、後悔は感情の中で最も長つづきしないものなのだ、と。しかしウエストレイはまだ忘れたくないのかも知れない。自分の主義に真向から反することをしたのだ。結果に対する責任を取るため、自尊心を回復する唯一の手段として、苦行者が馬巣織りのシャツを着るように、その責任を身にまとう決意なのかも知れない。何を言っても無駄だ。自発的であろうとそうでなかろうと、ウエストレイが罪滅ぼしをするつもりなら、それがいかなるものであれ、ブランダマー卿はひたすら傍観するしかないのである。彼の目的は達せられた。ウエストレイがそれに対してあがないの必要を感じているのなら、あがなわせてやらなければならない。ブランダマー卿には問いただすことも異議を唱えることもできないのだ。彼は代償を差し出すことさえできない。なぜならどのような代償も受け入れられることはないだろうから。

 一同が屋敷に近づいたとき、召使いが彼らを迎えた。

 「旦那様、カランからお使いの方が」と彼は言った。「大切な用件ですぐミスタ・ウエストレイにお会いしたいとのことです」

 「居間に案内してさしあげなさい。ミスタ・ウエストレイはすぐお会いになる」

 ウエストレイは数分後広間でブランダマー卿に会った。

 「カランから悪い知らせが届きました」建築家は急いで言った。「昨夜の強風で塔に無理がかかり、かなり揺れたそうです。ひどく危険な動きがあるようなので、すぐ戻らなければなりません」

 「是非そうしてください。馬車は玄関口に停まっています。リチェット駅で汽車に乗れば、お昼にはカランに着くでしょう」

 この出来事はブランダマー卿をほっとさせた。建築家の注意は明らかに塔に引き寄せられていた。もうすでに道ばたに生える「非の打ち所なき薬草」を見つけたのかも知れない。

 馬車のドアには雲形紋章が描かれていた。ブランダマー夫人は、夫がウエストレイに特別の注意をむけていることに気がついていた。いつも通り礼儀正しかったが、この客への接し方は他の人の場合とは違っていた。それなのに最後の瞬間になって彼は黙りこくってしまい、一人だけよそよそしく離れて立っているように彼女には見えた。両手を後ろに組み、意味ありげな態度だった。しかしブランダマー卿は配慮を示したつもりなのである。今まで二人は握手をしていない。妻や召使いの前で手を差し出し、ウエストレイに握手を強要するような真似は決してするまいと思っていたのだ。

 ブランダマー夫人は自分に理解できないことが起こっていると感じたが、ウエストレイには格別丁寧に別れの挨拶をした。絵のことは直接言及しなかったが、彼には大変世話になったといい、同意を求めるようにブランダマー卿のほうを振りむいた。彼はウエストレイを見てゆっくりと言った。

 「わたしがどれだけミスタ・ウエストレイの寛大さとご親切に感謝しているか、彼はご存じだと思うよ」

 一瞬の沈黙ののち、ミスタ・ウエストレイは手を差し出した。

 ブランダマー卿は心のこもった握手を返し、彼らは最後の視線を交わした。

第二十三章

 同じ日の午後、ブランダマー卿はみずからカランにおもむき、長年フォーデング一族の事務弁護士を務めているミスタ・マーテレットを事務所に訪ね、一時間ほど主任と私室に引きこもった。

 事務弁護士が事務所として使っている建物は町外れのみすぼらしい一軒家だった。正面には今でも松明の火消しが取り付けられていて、渦巻き模様のある、摩滅した鉄製ドアの上にはランプをぶら下げるブラケットが突きだしていた。薄汚れた場所だったが、ミスタ・マーテレットはこの州の有名な素封家を顧客に持っており、噂によると重要な家庭問題はカリスベリでよりこちらのほうで扱われることが多いらしい。ブランダマー卿は薄汚れた窓を背にして座った。

 「遺言補足書の趣旨はよく理解できました」と事務弁護士は言った。「明日にでも草案をお送りしましょう」

 「いや、いや、これはごく短いものだ。今片付けてしまおう」と依頼人は言った。「思い立ったが吉日だよ。ここには連署する証人もいる。きみのところの主席書記は信頼できる人間だろう?」

 「ミスタ・シンプキンは勤続三十年です」事務弁護士は謙遜するように言った。「その信頼すべき人柄は、いままで疑われたことがありません」

 ブランダマー卿がミスタ・マーテレットの事務所を出たとき陽はだいぶ落ちていた。自分の長い影を前方の歩道に見ながら、彼は曲がりくねる通りを市場のほうへ歩いていった。家々の屋根の上には、夕日を受けてバラ色に輝く聖セパルカ大聖堂の巨大な塔が間近く聳えていた。カランはなんと朽ち果てた町なのだろう!通りにはなんと人影のないことか!確かに通りは奇妙なくらいがらんとしていた。こんなにさびしい様子は見たことがなかった。墓場のような沈黙があたりを支配している。彼は時計を取り出した。この小さな町の住人はお茶を飲んでいるのだろう、と彼は思い、明るい気持ちで、しかも生まれてこのかた味わったことのないような心の安らぎを感じながら歩きつづけた。

 通りの角を曲がると、突然大勢の人だかりが目に飛びこんできた。群衆は彼と大聖堂が見下ろす市場のあいだを埋めつくしていた。何か事件が起きて町中から人が集まってきたものらしい。近くによると、町の住人全員がそこに集められたような混雑だった。とりわけ人目を引いたのは尊大ぶった参事会員パーキンで、その横にはミセス・パーキンと、背の高い、撫で肩のミスタ・ヌートが立っていた。よく太った非国教徒の牧師、ひょうきんな丸顔のカトリックの司祭もいた。豚肉屋のジョウリフはワイシャツにエプロンといういでたちで道の真ん中に立ち、ジョウリフの妻と娘たちも店の前の階段に群がって市場のほうに首を伸ばしていた。郵便局長と局員と二人の配達員が郵便局から出て来ていた。ローズ・アンド・ストーレイ服地店の若い店員は男も女も全員大きな光り輝くウインドウの前にたむろしていた。その中には共同経営者の一人ミスタ・ストーレイの金髪の巻き毛もきらめいていた。もう少し先の方を見ると、修復工事に雇われていた石工や人夫の一団がおり、そのそばには教会事務員ジャナウエイが杖に寄りかかって立っていた。

 そこにいる多くの人々はブランダマー卿の知り合いで、ほかにも一般人が大挙して押し寄せていたのだが、誰も彼に気づく者はなかった。

 群衆にはひどく奇妙な特徴があった。全員が市場のほうを見つめ、どの顔も渡り鳥の一群を見ているように上をむいていたのだ。広場に人はおらず、誰もそこに足を踏み入れようとはしなかった。いや、それどころかほとんどの人は反対の方向に逃げださんばかりに身構えている。にもかかわらず全員が魔法にかかったように聖堂が見下ろす市場のほうをむき、上を見上げているのだ。叫んだり笑ったりおしゃべりする声はなかった。ただ大勢の人が声を潜めて興奮したようにつぶやきをもらすだけだった。

 たった一人動いていたのは荷馬車の御者で、馬と馬車を移動させ市場から離れようとしているのだが、我を忘れた群衆が道を空けてくれないのでなかなか前に進めないでいたのだ。ブランダマー卿は男に話しかけ、何が起きているのかと尋ねた。御者は茫然としたように一瞬目を見開き、質問者が誰か分かると、あわててこう言った。

 「この先に行っちゃいけません、御前様!絶対行っちゃいけません。塔が崩れてきているんですよ」

 ほかの全員を縛り付けていた魔法がブランダマー卿にも降りかかった。目は恐るべき磁力で市場を見下ろす巨大な塔に引きつけられた。幅の広い段壁を持つ控え壁、透かし彫りと垂直様式の狭間飾りが施された鐘楼の二つの窓、狭間胸壁、天を突く小尖塔の群れ、これらが夕日を受けて柔らかく淡紅色に光っていた。ヴィニコウム修道院長が完成した建物をはじめて見て、よきかなと神をたたえたあの日にも勝るとも劣らぬ美しさ、見事さだった。

 しかしこの静かな秋の夕暮れ、塔はその壮麗な外見にもかかわらず、何か恐ろしい異変に見舞われていた。コクマル烏はそのことに気づき、狂ったように鳴きながら、大群をなして住み慣れた巣のまわりを旋回し、沈みかけている日の光のなかに羽をひらめかせ、群れの形を変えつづけた。市場にもっとも近い西の側面を見ると、いくつもの石の継ぎ目から白い粉が流れだし、墓地にむかって、まるでスイスの大滝の水しぶきのように降り注いでいた。それはまさに死に際の苦しみに悶える巨人の汗だった。崩壊しつつある石造建築から漆喰がすりつぶされて流れ出したのだ。ブランダマー卿にはそれが砂時計のなかを流れ落ちる砂のように見えた。

 そのとき群衆は一斉にうめき声をあげた。胸壁の下の、角に取り付けられていたガーゴイルの一つ、三世紀のあいだ身体を突き出し、墓地をにやにやと見下ろしていた悪魔の彫像の一つが壁から剥がれ落ち、下の墓地に粉々に砕け散ったのである。束の間の沈黙があり、それからまた傍観者たちのささやきが始まった。誰もが短く、一息にしゃべった。まるで言い切ってしまう前に最後の崩壊が起こるのではないかと恐れているかのようだった。教区委員のジョウリフは何かを待ち受けるような沈黙を差しはさみながら「われらがただなかに下されし天罰」などとつぶやいた。主任司祭はジョウリフが黙っているあいだ、反論するかのように「シロアムの櫓たふれて、壓し殺されし十三人」(註 ルカ伝から)などと言った。ミス・ジョウリフがときどき来てもらっている家政婦の老婆は両手を握りしめ、「ああ!何ていうことでしょう!何ていうことでしょう!」と言い、カトリックの司祭は低い声で何やら祈りを唱え、その合間に十字を切った。そのそばに立っていたブランダマー卿は、「ゆけよかし」とか「百合のごとく輝ける」とか臨終の祈りのことばを二言三言聞いた。それはヴィニコウム修道院長の塔が、その影のもとに暮らす人々の胸の中に、かけがえのないものとして生きていることを示していた。

 そのあいだも白い粉が絶え間なく手負いの建築物の側面から吹き出していた。砂時計の砂は急速に流れ落ちていく。

 石工頭がブランダマー卿を見て、近づいてきた。

 「昨日の晩の大風のせいですよ」と彼は言った。「今朝来てみたら、危ない状態になっていることが分かりましてね。ミスタ・ウエストレイは昼から塔にあがって打つ手がないかと調べていたんですが、二十分前にいきなり鐘楼に入ってきて『外に出ろ、みんな。急げ、もうだめだ』っていうんですよ。土台が弛んできているのです。ほら、外壁の基部が動いて北側の墓地の墓を押し上げているでしょう」彼は塔の土台におされてめくれあがった、ぐちゃぐちゃの芝生と墓石、そして墓地の地面を指さした。

 「ミスタ・ウエストレイはどこだね」ブランダマー卿は訊いた。「ちょっと話があるといってくれ」

 彼はまわりを見回し建築家を探した。群衆の中にその姿が見つからないのでおかしいと思った。まわりに立っている人々はブランダマー卿のことばを聞いていた。カランの人々はフォーディングの領主をまるで全知全能であるかのごとく見なしていた。アヤロンの谷でヨシュアが太陽の運行を止めたように、塔にむかって、動きを止めよ、倒れるな、と命令することはできなくても、きっと大惨事を回避する名案を建築家に授けることができるはずだ。建築家はどこにいるのだ?彼らはいらいらと尋ねた。ブランダマー卿が呼んでいるのにどうしておそばにいないのだ?どこに行った?次の瞬間ウエストレイの名前はすべての人の口にのぼった。

 ちょうどそのとき塔から声が聞こえてきた。鐘楼の鎧窓から、その高みにもかかわらず、コクマル烏のやかましい鳴き声を通して、はっきりと一語一語が明瞭に聞こえてきた。ウエストレイの声だった。

 「鐘楼に閉じこめられた」とそれは叫んだ。「ドアがふさがっている。頼む!金梃を持ってきてドアを壊してくれ!」

 そのことばには絶望がこもっていて、聞く者に恐怖の戦慄を与えた。群衆は顔を見合わせた。石工頭は額の汗をぬぐった。彼は妻と子供のことを考えていた。するとカトリックの司祭が進み出た。

 「わたしが行こう」と彼は言った。「わたしに家族はないから」

 ブランダマー卿は何か他のことに気を取られていたようだったが、ふと司祭のことばを聞いて我に返った。

 「何を言うんだ」と彼は言った。「わたしの方が若いし、あそこの階段を登りなれている。梃をよこしたまえ」

 大工の一人がばつが悪そうに梃を渡した。ブランダマー卿はそれを受け取ると大聖堂の方へ急いで駆けていった。

 石工頭がその背中に呼びかけた。

 「御前様、開いてるドアは一つだけです——オルガンのそばの小さいやつです」

 「ああ、知っている」ブランダマー卿は叫び、聖堂の角を曲がって姿を消した。

 数分後、彼は鐘楼のドアをこじ開けた。自分の方にむかってドアを引き開け、その後ろで階段の上に立ち、ウエストレイが下に逃げられるように道を空けた。ブランダマー卿はドアの後ろに隠れていたから、二人の男は目を合わせることがなかった。ウエストレイは助けてくれた相手に礼を言いながらも、すっかり動転していた。

 「全速力で走れ!まだ助かった訳じゃないぞ」ブランダマー卿が言ったのはそれだけだった。

 若者は脇目もふらずに階段を駆け下りた。ブランダマー卿はドアを前に押し、急ぎもせず、慌てもせず、いつもの修復工事の視察から帰るかのように階段を下りた。

 ウエストレイは聖堂の中を駆け抜けたあと、歩道に横たわる漆喰の山と石の残骸の間を縫って進まなければならなかった。南袖廊のアーチの上から壁の表面が剥がれ落ち、落下の際に床をぶち抜いて地下納骨所にめりこんでいた。頭の上では黒い稲妻に似た、あの不吉な割れ目が、洞穴のような大きさに広がっていた。聖堂は不気味な声、奇怪なうめき声、うなり声に満ち、あたかも亡くなったすべての僧侶の魂がヴィニコウム修道院長の塔の崩壊を泣き悲しんでいるかのようだった。石が砕け、木材が折れる、鈍く重々しい、うなるような物音がしたが、建築家の耳にはそれを圧するようにアーチの叫び声が聞こえていた。「アーチは決して眠らない。決して。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」

 外では市場の人々が固唾をのんで見守っていた。手負いの塔は側面から相変わらず白い粉を吹き出していた。六時だった。十五分おきの鐘が鳴り、一時間おきの鐘が鳴った。最後の鐘が鳴り終わるよりも先にウエストレイが広場に走りこんできたが、人々はブランダマー卿の安全が確認されるまで歓声を上げるのを待った。鐘が「バーモンジー」を鳴らしはじめ、無数の輝かしい晴れた夕方と同じように澄んだ朗らかな音が響きわたった。

 とたんにその調べは途切れた。耳障りな音が入り乱れ、テイラー・ジョンが低く唸り、ビータ・マリアが甲高い悲鳴をあげた。大砲のような轟音、地を揺るがす振動が走ったかと思うと、白い埃が濛々と立ち昇って、崩れ落ちた塔の残骸を野次馬たちの目から隠した。

エピローグ

 同じ日の夕方、英国海軍エニファー中尉はコルベット艦ソウルベイ号でイギリス海峡を渡り中国海ステーションにむかった。彼はブルティール家の次女と婚約していたため、恋人が住む古い町のそばを通るとき、そちらのほうに望遠鏡をむけた。彼は航海日誌に、空気は澄み、船は沿岸から六マイルしか離れていないのにカラン大聖堂の塔が見えなかったと記した。レンズを拭き、他の士官に呼びかけて昔からの航海目標がなくなっていることを確認した。彼らは白いものが濛々と立ちこめているのを見ただけである。それは煙なのかもしれないし、土埃なのかもしれないし、町にかかる霧なのかもしれなかった。あれは霧に違いない、きっと大気の異常現象で塔が見えなくなってるのだと彼らは言った。

 エニファー中尉が塔の崩壊の知らせを聞いたのはそれからほんの数ヶ月後のことだった。五年後帰還のために再びイギリス海峡を通ったとき、昔からの航海目標はもう一度くっきりと姿をあらわした。以前よりもやや白っぽく見えたが、しかし昔と変わらぬ塔であった。塔はブランダマー夫人が工事費を全額負担して再建されたのだった。地下室には人命救助の最中に塔の中でみずからの命を失ったホレイシオ・セバスチャン・ファインズ、すなわちブランダマー卿をしのぶ真鍮の銘板がかけられていた。

 再建工事はミスタ・エドワード・ウエストレイに委ねられた。ブランダマー卿はその死のほんの数時間前に遺言補足書で彼をブランダマー夫人と共に、幼い跡継ぎの管財人かつ後見人に指定していた。

後記

 翻訳に当たって以下の本から訳文をお借りしたり、わたしの責任で一部字句を変えて引用しました。ここに記して感謝します。

  • 「テニスン詩集」西前美巳編 岩波文庫
  • ウェルギリウス「アエネーイス」岡道男・高橋宏幸訳 京都大学学術出版会
  • 旧新約全書 神戸 英国聖書会社
  • ウェルギリウス「牧歌・農耕詩」河津千代訳 未来社
  • 「キリストにならいて」大沢章・呉茂一訳 岩波文庫
  • ジョン・ミルトン「失楽園」平井正穂訳 岩波文庫
  • 「ミルトン詩集」才野重雄訳注 篠崎書林
  • 「ホラティウス全集」鈴木一郎訳 玉川大学出版部

 また訳出の際、The John Meade Falkner Society から出ているニューズレター(特に2002年5月ニューズレター9号に掲載された David Rowlands 氏の Bell-ringing in _The Nebuly Coat_ は十九章のピールの記述に誤りがあることを指摘しており、門外漢には非常に参考になります)、および Edward Wilson 氏の

Literary Echoes and Sources in John Meade Falkner's _The Nebuly Coat_ (The Review of English Studies, Feb., 1997)

を参照し、大いに教えられるところがありました。煩瑣になることを避け、本文にはできるだけ註をつけないようにしましたが、本書に関心のある方は Wilson 氏の論文を一読することをお勧めします。この論文を閲覧させてくださった札幌市立大学の図書館に感謝します。

 本書は建築、音楽、宗教に関する作者の蘊蓄を傾けた本で、背景を確認するために多くの本を参考にし、いろいろの人から貴重な情報をいただきました。いちいちお名前は記しませんが、ここに厚くお礼申し上げます。しかし、それにもかかわらず不明の箇所がいくつか残ってしまったのは、ひとえにわたしの力不足のせいです。また専門用語の使い方に不自然なところや間違いがあるかも知れません。ご指摘いただければ訂正していきますので、ご教示の程お願いいたします。

訳者連絡先 imchongjun2000 アット yahoo ドット co ドット jp