雲形紋章

 アナスタシアは独りになった。また独りになれて彼女は心からほっとした。もっともそんな気持ちになるのは今出て行ったばかりの暖かい老人の思いやりに対して裏切りを働くことであり、恩知らずなことだと感じてはいた。老人の温かい心は彼女のことを深く気遣っているのだ。でも彼女はその心にむかって起きたことを打ち明けなかった!彼女は独りだった。ほんのしばらく安らかな気持ちで寝台の足もとの鉄柵のあいだから暖炉の火を見つめていた。この二年ほど寝室の暖炉に火を入れたことはなかったので、その珍しさにふさわしい喜びとともに彼女は贅沢を楽しんだ。眠くはなく、次第に落ち着きを取り戻し、書くと約束した手紙のことを考えることができるようになった。難しい手紙になりそうだったが、その中で克服不可能な障害を提出しなければならないと、彼女は闘志満々だった。ブランダマー卿のような地位の人でさえ、克服は絶望的と認めざるを得ないような障害を。そう、この手紙は素敵なロマンスの奥付、驚くべき悲劇のエピローグになるのだ。しかし実をいえば犠牲を要求していたのは彼女の良心であり、結局のところ一ポンドの肉が本当に切り取られることはないのだ、と心の底で分かっているからこそ、そんな手紙を書くのがいっそう楽しかったということなのである。

 我々は良心の犠牲者となり、厳格な社会的道徳通念に従うことを、どれほど心ゆくまで楽しむだろう、我々のことばを額面通りに受け取る嫌な人が誰もいない場合は!その贈り物は受け取れないと抗議したり、この金はすぐ返すなどと言えば、われわれはいとも簡単に道徳の高みに達することができる。ところが贈り物は結局いやがる我々の手に押しつけられ、借りた金は決して返済を迫られないのだ。アナスタシアについても同じようなことがいえる。彼女は、手紙で恋人に致命的な一撃を与えよと自分に語りかけ、もしかしたら本気でそれを信じていたのかも知れないが、パンドラの箱のようにその奥底には希望が隠されていたのである。ちょうど夢のなかで真に迫った危機に直面しても半覚醒状態の意識が、これは夢だ、と我々を支えることがあるようなものだ。

 その後しばらくして、彼女は寝室の暖炉の前に腰かけて手紙を書き出した。寝室の暖炉には独特の魔力がある。それも、夜な夜な金持ちの寝室を温室のように暖める暖炉ではなく、年に一二度しか火の入らない暖炉には。石炭が柵のあいだで輝き、赤い炎が煤まみれの煉瓦をちらちらと照らし、ミルク酒が薬罐台の上で湯気を立てている!ミルクやお茶、ココアやコーヒー、何の変哲もないありきたりの飲み物が寝室の火によって純化され、頭痛を治すネペンテス(註 昔ギリシア人が飲んだという薬)になり、恋の媚薬にならないだろうか。ああ、夢に満ちた瞬間よ。そのとき若者は明日の征服を思い、中年は昨日が永遠に過ぎ去ったことを忘れ、ぐちっぽい老人すら彼らなりの「名誉と奮闘」(註 テニスンの詩から)があると考えるのだ!

 部屋着の代わりに着ていた青いおんぼろケープは大急ぎで手紙を書いている最中にずり落ちてきて、その下の白いナイトガウンをのぞかせた。下を見ると真鍮の炉格子にかけたはだかの足が火に照らされ、熱さのあまりつま先を丸め、上を見ると火明かりは豊満な曲線を照らし出していた。彼女の身体はふっくらとして娘盛りの色香があった。移ろいやすく、かけがえのない、真似しようとしても無惨なほど滑稽な失敗にしかならない、あの青春の盛りである。嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントをねたませた豊かな黒髪は黒いリボンでまとめられ、椅子の背にだらりと垂れていた。書いたり、書き直したり、消したり、塗りつぶしたり、破ったりしていると、夜も深々と更けてきて、苦労が実るよりも先に文箱の中の数少ない紙がつきてしまうのではないかと不安になった。

 手紙はようやく書き終わった。やや形式張ったというか、大げさというか、気取った文面だったとしても、人生の大事なときなのだからある種の堅苦しさがあるのは当然ではなかろうか。誰が主教の職を「喜んで」お受けする、などと書くだろう。誰が国王の謁見式に麦わら帽子で行くだろう。

 親愛なるブランダマー卿(と手紙は始まった)

 人生経験のとぼしいわたしには、あなたへの手紙をどう書けばいいのかよく分かりません。あなたがおっしゃってくれたことには心から感謝申し上げます。あのことを思うと喜びがあふれ、今後も思い出すたびに喜びを感じるでしょう。わたしとの結婚など、考えてはいけない大きな理由がきっとたくさんあると思うのですが、あったとしても、それをわたしなどより十分承知の上で、無視なさったのですね。でもあなたの知るはずのない、結婚できない理由が一つあるのです。知るはずのないというのは、そのことを知っている人がほとんどいないからです。このことは親類縁者以外には知られたくありません。もしかしたらそもそも書くべきではないのかも知れません。しかしわたしには相談にする相手がいないのです。正しいことをしようと思っているのですが、もし間違ったことをしているなら、どうかお許しください。そして読み終わったときにこの手紙を焼き捨ててください。

 わたしにはいま呼ばれている名を名乗る権利がないのです。市場に住んでいる従兄弟は別の名を名乗るべきだと考えていますが、わたしたちには本当の名前すら分からないのです。わたしの祖母がミスタ・ジョウリフと結婚したとき、彼女にはすでに二歳か三歳になる男の子がいました。この息子がわたしの父で、ミスタ・ジョウリフは彼を養子にしたのです。しかし祖母には結婚前の姓を名乗る権利しかありませんでした。それが何という姓なのかは分かりません。わたしの父はそれを生涯かけて調べだそうとし、もう少しで判明するというときに最後の病に倒れて亡くなりました。父は自分の血筋についておかしなことをよく語っていましたから、頭がどうかしていたに違いないと思います。たぶん、名前がないというこの不名誉が、わたしにとってもしばしばそうであるように、父にとっても苦痛だったのでしょう。けれどもそれがこんなにわたしを苦しめることになるとは思ってもいませんでした。

 叔母にはあなたがおっしゃったことを話していませんし、誰にも聞かせるつもりはありません。でもわたしは人生でいちばん甘美な思い出として、あのときのことを忘れることはないでしょう。

誠実なるあなたの友

アナスタシア・ジョウリフ

 とうとう書き終わった。彼女はあらゆる希望を抹殺し、愛を抹殺した。彼は二度と彼女を娶ろうとはしないだろうし、近寄ることもないだろう。しかし彼女は秘密という重荷を肩から下ろしたのだ。その秘密を打ち明けずに彼と結婚することはできなかっただろう。再び床にもぐりこんだのは三時だった。火が消えて、ひどく寒くなったので、ベッドに戻るのは嬉しかった。自然の女神の手助けで、彼女は優しい眠りへといざなわれた。夢を見たとすれば、それはドレスや馬や馬車や召使いや小間使いやブランダマー夫人が住むフォーディングの大邸宅やブランダマー夫人の夫の夢だった。

 ブランダマー卿もその晩は夜更かしをした。やはり寝室の暖炉の前で、実に規則正しく本のページをめくりながら。葉巻の火は一度も絶えることなく、注意力が途切れる様子もなければ、気にかかることがあるような様子もなかった。彼はエウゲニドゥの「アリステイア」を読んでいた。ホノリウス帝政下に迫害された異教徒に関する記述を読み、その日の午後の出来事などなかったかのように、アナスタシア・ジョウリフという人間などこの世に存在しないかのように、冷静にその議論の是非を検討していた。

 アナスタシアの手紙は次の日の昼時に届いたが、彼は封を切るよりも先に昼食を済ませた。しかし封筒の垂れ蓋には赤くて太い「ベルヴュー・ロッジ」という文字が打ち出されていたから、どこから来たのものかは分かっていたはずである。マーチン・ジョウリフは何年も前に刻印の入った便箋と封筒を注文したことがあった。家系調査で質問状を送るとき、ただの便箋より刻印入りのほうが注意をひきやすい——これは立派な人物であることの証しなのだ、というのである。カランの人はこれを彼のろくでもない贅沢の一例と考えていた。レターヘッドのある便箋を使ってもおかしくないのはミセス・ブルティールと参事会員パーキンだけである。しかも司祭でさえレターヘッドは印刷するのであって浮き出しにはしない。マーチンはとっくの昔に手持ちの便箋と封筒を使い切っていたが、最初の注文の支払いが済んでいなかったので、二束目を注文することはなかった。しかしアナスタシアはこの運命的な封筒を六通ほど取っておいたのだ。学校に行っていた頃くすねたのだが、彼女にとっては今でも大切なよき家柄の名残であり、また多くの人がぼろ着を隠すためにその上に羽織りたいと思うパリューム(註 古代ギリシア・ローマの外衣)なのである。彼女がこの重大な機会にその一通を使用したのは、フォーディング宛の手紙を入れるのにふさわしく、便箋に使ったわら紙から注意を逸らしてくれるかも知れないと思ったからだ。

 ブランダマー卿は「ベルヴュー・ロッジ」の文字を見、浮き出し模様のいわくを推測し、それを使ったアナスタシアの意図を見抜いたが、それでも食事が終わるまで手紙に手をつけなかった。あとで目を通したときも、あかの他人の文章を批評するようにその手紙を批評し、あまり興味のない文書であるかのように扱った。しかしこの手紙を書くために娘が苦心惨憺したことはよく分かったし、そのことばに感動し、ある種の強い同情すら感じた。だが何よりも彼の心に重くのしかかっていたのは、奇怪な運命の詐術、ソフォクレスの劇にも似た人間の立場の複雑さであって、その謎を解く鍵を握っているのはただ彼一人しかいないのだった。

 彼は馬を用意させカランにむかって発とうとしたが、最初の門番小屋を通り過ぎようとしたとき代理人があらわれ、庭園の端の植樹についてさらに指示を仰ぎたいと言われた。そこでむきを変えて植樹が行われている広いブナの並木道へ駆けつけたのだが、そこでの用事が長引き夕暮れになってしまったので、町に行くのは断念せざるを得なかった。並み足でフォーディングに帰る途中、わざと遠回りをして秋の森に落ちる夕日を楽しんだ。アナスタシアには手紙を書いて、訪問を次の日に延期するつもりだった。

 彼の場合は、前の晩、アナスタシアの努力に伴ったような大量の反故の発生はなかった。手紙は一枚の便箋に書きはじめられ、その一枚で事足りた。要した時間は十五分、簡潔に言いたいことをまとめた。すらすらと文章を書きつづったが、その程度のことはオデュセウスが重い石を軽々とパエアキア人より遠くへ投げ飛ばしたように造作もないことだった。

 愛しい人へ

 あなたの手紙を待ちわびて、どれほどつらく不安な時間を過ごしたか、申し上げるまでもないでしょう。その時間に終止符が打たれ、あたりは一面、曇り空のあとのように陽の光に包まれています。あなたの住所を記した封筒を見て、どれほど胸が高鳴り、どれほど勇んでわたしの指が封を切ったか、お話しせずとも分かっていただけると思います。今は幸せでいっぱいです。お手紙をいただいたこと、幾重にも幾重にも感謝します。率直さと優しさと真実に満ちた、あなたらしい手紙でした。心配なさらないでください。打ち明けていただいたことには羽毛ほどの重みもありません。過去の名前のことで悩むのはおやめください。これから新しい名前を持つのですから。わたしたちのあいだに横たわる障害物に目をつぶってくださったのはわたしではなく、あなたです。あなたはわたしたちの年の差を無視してくださったではありませんか。もうこの手紙を書く時間がありません。舌足らずの点はお許しいただき、これで意をつくしたものとお考えください。明日の朝、お目にかかるつもりです。

あなたに献身的な愛を捧げる

ブランダマー

 封をする前に読み返すことすらしなかった。急いでエウゲニドゥの「アリステイア」をひもとき、ホノリウス帝政下に迫害された異教徒の記述に戻ろうとしていたのである。

 二日後、ミス・ジョウリフは一週間の半ばだというのによそ行きのマントにボンネットという格好で市場へ行き、従兄弟の肉屋を訪ねた。彼女の服装はたちまち人目をひいた。そんな盛装をするのは教区で祝典かお祭りのあったときくらいなのだが、教区委員の家族が何も知らないところでそんなことが行われるはずがなかった。着ているものだけでなく、その着こなし方も実にしゃれていた。店の裏手の客間に入ると、椅子に腰かけていた肉屋のおかみと娘たちは、こんなに立派な服装の従姉妹は見たことがないと思った。彼女の晩年に翳りを与えていた、やつれて途方に暮れ、虐げられたような様子は払拭され、顔には落ち着きと満足が輝き、それが不思議なことに服装にまで伝わっていた。

 「今日のユーフィミアは朝から貴婦人みたい」と年下の娘が年上の娘に囁いた。彼らはためつすがめつ彼女を眺め、変わったのはボンネットの藤色のリボンだけで、コートもドレスも今まで二年間日曜日ごとに見ていたものと同じだとようやく確認した。

 「うなずいてみせたり、手招きしたり、満面の笑みに顔をほころばせたり」(註 ミルトンの詩から)しながら、ミス・ユーフィミアは腰を下ろした。「ちょっと寄ってみたの」と彼女は切り出したが、その文句にこめられた軽い、小生意気な調子に聞いている者はぎょっとした——「お知らせをしに、ちょっと寄っただけなの。あなたがたはいつもこの町でジョウリフを名乗る権利があるのはあなたがたのほうの家系だけだと口やかましく言っていたわね。否定はなさらないでしょう、マリア」と彼女は非難がましく教区委員の妻に言った。「いつもうちこそが本物のジョウリフだと言っていたじゃない。わたしとアンスティスだって使う権利があると思っていたのに、同じ名前を使うのを厭がっていたわよね。さあ、あなたの家族以外にジョウリフの名前を使う家が一つ減ったわよ。アンスティスがその名前を捨てますからね。ある方が彼女に別の名前を差し出してくださったの」

 本物のジョウリフたちは視線を交わした。お相手は、自分の商品はカランのどの娘が着たときよりアナスタシア・ジョウリフが着たときにいちばん引き立つと言った服地店の共同経営者だろうか、とか、いやいや、ミス・ユーフィミアに卵を売るとき、必ず他の人より一ペニー安くしていた若い農夫だろうかと考えた。

 「そうなの。アンスティスは名前が変わるの。これで苦情の種が一つなくなるってわけよね。ついでにもう一つ片をつけておきましょう、マリア。例の小さな銀の食器、あれは一族以外の者の手には渡らないわ。分かっているでしょう——あなたがずっと自分のものだと言っていたティーポットとJの字の入ったスプーンよ。わたしが天に召されるときが来たら、全部あんたに残してあげる。アンスティスがこれから行くところじゃ、あんな半端物は必要ないから」

 本物のジョウリフたちはもう一度目と目を交わした。聖堂でクリスマスの飾り付けをしたとき、アナスタシアを手伝ってガスの枝つき燭台に飾りをつけていたブルティールの息子が相手だろうか。それともあの気取った声と貴婦人ぶった態度は、教区委員の娘二人がどちらも気をひこうと望みを持っていなかったわけでもない、結構ハンサムな面白い若者、ミスタ・ウエストレイを、結局のところ虜にしてしまったのだろうか。

 ミス・ジョウリフは好奇心をかき立てられた彼らの様子を面白そうに見ていた。彼女はからかってやろうといういたずらっぽい気分になった。そんな気分になったのは実に三十年ぶりのことだった。

 「そうなのよ」と彼女は言った。「わたしは間違ったら間違ったって、はっきり認めるほうなの。ほんと、わたし間違ってたわ。眼鏡をかけなきゃだめね。目の前で起きていることも見えないみたいなんですもの——教えてもらっても分からないんですから。わたしがわざわざお知らせに来たのはね、マリアに皆さん、ブランダマー卿がベルヴュー・ロッジに来るのはアンスティスのためじゃないって教区委員に言ったこと、あれが全然間違いだったってことなのよ。御前様がいらっしゃったのはまさしく彼女に会うためだったみたいね。それが証拠に御前様は彼女と結婚なさるのよ。三週間後には彼女はブランダマー夫人。お別れを言いたいなら、さっそく今からわたしの家へお茶に来たほうがいいわ。あの子はもう荷造りして明日ロンドンに発ちますからね。マーチンの生前、アンスティスが通っていたカリスベリの学校からハワード先生が来て、彼女のお世話と嫁入り道具の調達をしてくださるの。ブランダマー卿がみんな按配してくれたわ。式を挙げたら大陸を長期旅行する予定よ。まあ、他に行くところもないでしょうけど」

 何もかも本当のことばかりだった。ブランダマー卿は一切を秘密にすることなく、カランに在住していた故マーチン・ジョウリフエスクワイアの一人娘アナスタシアとの婚約はまもなくロンドンの新聞に発表された。ウエストレイが結婚を申しこむ前に逡巡と懸念を抱いたのは無理もないことである。家系や地位が有力とはいえない者に身分不相応な振る舞いはできず、こうした状況においては世間の意見が大きな役割を果たすものなのだ。自分よりも身分が下の者を娶るということは、自分を妻の身分までおとしめることになる。彼には妻を自分の地位まで引き上げる余力がないのである。ブランダマー卿の場合は違う。自分の力に絶大の自信を持ち、世間に挑戦状をたたきつけるような今回の結婚を、どちらかというと楽しんでいるようなふうがあった。

 ベルヴュー・ロッジは注目の的になった。下宿の女主人の娘を軽蔑していたご婦人方は、貴族の婚約者のご機嫌を取りにそこを訪れた。彼らはこの変節の動機をみずからにごまかすことなく認め、他人に対しても言い訳したりしなかった。彼らはただ一斉に、実に見事に呼吸を合わせて回れ右をし、えさを運ぶ人間のあとを追う猫のように、そうすることに何のためらいも恥ずかしさも感じなかった。アナスタシアに会えずがっかりしたとはいうものの(彼女は婚約が発表された直後にロンドンに発った)、ミス・ユーフィミアがまことにこころよく事件をあらゆる角度から論じてくれたので、幾分かはその埋め合わせができた。ブランダマー卿の長靴のボタンからアナスタシアの指にはめられた婚約指輪に至るまで、ありとあらゆる細部が念入りに検証され詳述された。ミス・ジョウリフは指輪にはエメラルドがはめられていたと倦むことなく説明した——「とても大きなエメラルドで、まわりをダイヤが囲んでいるの。緑と白って、御前様の盾の色なのよ。ほら、雲形紋章っていうやつ」

 さまざまな結婚祝いがベルヴュー・ロッジに届いた。「結婚とかお葬式とか、大変なことがあると本当にご近所さんからありがたい同情が寄せられるものなのね」無邪気にも人間は皆善良である、などと真剣に考えながら、ミス・ジョウリフは言った。「アンスティスが結婚するまで、こんなにカランに友達がいたなんて思っても見なかった」彼女は次々と来る訪問者に「贈り物」を見せ、訪問者のほうはそれらを津々たる興味をもって眺めた。彼らはそのほとんどをカランの店の陳列窓で見ていたので、知り合いがフォーデングのひいきを得るためにいくらくらいの出費を賢明と判断したかが分り、いっそう興味深かったのである。そこにはありとあらゆる無駄な醜さがあった——趣味という仮面をかぶった俗悪、寛大という見せかけを持ったけちくささ——ミス・ジョウリフは鼻高々とそれらをカランから送り出したが、ロンドンで受け取ったアナスタシアは心底恥ずかしい思いをした。

 「過去のことは水に流さなくちゃ」ミセス・パーキンは真のキリスト教的寛容をこめて夫に言った。「あの若者の選んだ相手はわたしたちが望んでいたような人じゃないけど、何といっても彼はブランダマー卿ですもの。彼のためにもあの奥さんで我慢しなくちゃならないわ。贈り物が必要ね。主任司祭という立場で何もしないわけにはいかないでしょう。他の人はみんな何かあげているというし」

 「高すぎるものはやめておきなさい」彼は新聞を置きながら言った。費用の問題となると黙ってはいられない。「高価すぎる贈り物はこういう機会にふさわしくないだろう。値打ちのあるものより、ブランダマー卿に親愛の情を表すもののほうがいい」

 「もちろんよ、もちろんだわ。任せてちょうだい。変なものは選ばないから。ぴったりの品物に目をつけてあるの。ラヴェリックの店で素敵なスプーン付きの塩入れが四つセットになって売っているの。ふかふかのサテンの箱に入って。たったの三十三シリングなんだけど、三ポンドはしそうに見えるのよ」

第十九章

 結婚式はひっそりと行われた。当時カランにはそうしたニュースを伝える新聞がなかったため、町の人は「ホレイシオ・セバスチャン・ファインズすなわちブランダマー卿とカラン・ウオーフの故マーチン・ジョウリフの一人娘アナスタシアはセント・アガサズ・アット・ボウ教会にて挙式」という素っ気ない発表で好奇心を満足させるしかなかった。ミセス・ブルティールは自分の立ち会いがなければブランダマー卿の結婚は認められないと言ったらしい。参事会員パーキンとミセス・パーキンも職権上、式に呼ばれるべきだと感じたし、教会事務員のジャナウエイはさかんに間投詞を差しはさみながら「お二人がめあわされるところを何としても見にゃならねえ」と断じた。ロンドンにはもう二十年も行ったことがなかったし、路銀に金貨一枚かかるとしたって、へっ、行かなきゃ男がすたりまさあ。それにブランダマー卿の結婚なんて生きているうちに二度と見るこたあないでしょうからなあ。けれども式には誰も出席しなかった。場所と日時が公表されなかったからである。

 ただ一人出席したミス・ジョウリフはカランに戻るとさっそくベルヴュー・ロッジで何度かお披露目の会を開いた。その席では結婚式とそれに付随する出来事ばかりが話題にされた。彼女はその場に合わせて新しいコーヒー色の絹のドレスを着、ミスタ・シャーノールの部屋では湯沸かしがしゅーしゅー音を立て、マフィンやトーストや砂糖たっぷりのケーキが並び、家のなかは大混雑、三十年前に神の手から最後の大型四輪馬車が走り去って以来の賑やかさとなった。集まった人々は非常に礼儀正しく、好意的ですらあり、その場の雰囲気に浮き立ったミス・ジョウリフはほんの数週間前、ドルカス会の集まりでのけ者にされたり、冷たい目で見られ、悲しい思いをしたことなどすっかり忘れた。

 この集まりで多くの重要な点がつまびらかにされた。結婚式は花嫁から特に希望があって、早朝に行われることになった。出席したのはハワード先生とミス・ユーフィミアだけだった。アンスティスは教会から駅へ直行できるように濃い緑色の旅行服を着ていた。「それでね、皆さん」と彼女は全員を包みこむような慈愛のまなざしをむけていった。「あの子ったら、すっかり若い貴婦人みたいでしたわ」

 思いやりに溢れた理解ある聴衆は、過去六週間のあいだ、アナスタシアに青天の霹靂の事件が起きて、その勝利の奪い去られることを期待していたのだが、結婚式がついに挙行されたと知って愕然とし、冷笑を浮かべることすらできなかった。嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントだけが鼻を鳴らすだけの勇気を持っていて、偽装結婚ってこともあるからね、などと隣の人に囁いた。

 新婚旅行はずいぶん長引いた。ブランダマー夫妻はまずイタリアの湖水地方へ行き、そこからミュンヘン、ニュルンベルグ、ライン川を旅して帰国の途につくはずだったが、休みながらゆっくり進んだために、パリに着いたときにはもう秋が訪れていた。そこで冬を過ごし、春にはブランダマー家の全財産を受け継ぐ跡取り息子が生まれた。この知らせは地元の人々を大いに喜ばせ、家族がカランに帰ってくるという一報が伝わると、聖セパルカ大聖堂の塔からピールを鳴らしてお祝いをしようということになった。これは参事会員パーキンの発案だった。

 「修復費用をほぼ全額寄付していただいている貴人にふさわしい敬意のあらわし方だと思うがね。どれだけ塔が補強されたか見せてさしあげなければならん。どうだい、ミスタ・ウエストレイ。カリスベリの鐘突き男を呼んでカランの人に鳴らし方を教えてもらおうじゃないか。塔が倒れるまでサー・ジョージへの支払いが延びるとしたら、今の様子じゃこれまで以上に料金の受け取りをお待ちいただくことになるだろう。ええ、どうかね」

 「まあ、わたし、古い習慣が大好き」と妻が同意した。「にぎやかなピールって、心がうきうきするわ。古きよき習慣はいつまでもつづけていかなくちゃね」もてなしにかかる費用の安さがとりわけ彼女の気に入った。「でも、あなた」と彼女はためらいながら問題点を指摘した。「カリスベリから鐘突き男を呼ぶ必要はあるかしら。あの人たちは始末に負えない酒飲みよ。こんな機会ですもの、喜んで鐘を鳴らそうっていう若者はカランにも大勢いると思うわ」

 しかしウエストレイは大反対だった。確かに引っ張り鉄を取りつけたから、その分だけ塔の強度は増したが、南東の大基柱をちゃんと補強するまで鐘を鳴らすことには賛成できない、と彼は言った。

 この抗議はあまり歓迎されなかった。ブランダマー卿は不愉快に思うだろう。もちろん、ブランダマー夫人がどう思おうと関係はない。実際、下宿の女主人の姪のために聖堂の鐘を鳴らすなど、考えただけでも馬鹿げている。しかしブランダマー卿はきっと気を悪くするだろう。

 「あの現場監督、若いくせにうぬぼれていて鼻持ちならないわ」とミセス・パーキンは夫に言った。「あんな気取り屋に我慢してちゃだめ。二度とつけいらせてはいけません。人がよすぎて甘やかすから、『みんな』つけこんでくるのよ」

 こんな具合にはっぱをかけられた彼は、とうとう、自分は人の指図を受けるような男ではない、鐘は鳴らさせるし、サー・ジョージに自分の意見を裏付けてもらうと、やけに豪胆なところを見せて彼女を納得させた。陽気な短い手紙を書くことで知られるサー・ジョージは平凡な洒落と古典風の比喩を適度に織り交ぜて、次のように書いてよこした。「感謝」が神殿のきざはしを上がり、「婚姻」の祭壇に捧げものをしようとするとき、「思慮」は階の下で静かに彼女が降りてくるのを待たなければならない。

 サー・ジョージは医者になるべきだったと、友人たちは言った。いつも愛想がよくて安心感を与えるからである。彼はこのようにうまい文句をひねり出すと、緊急を要する大仕事に追われていたので、聖セパルカ大聖堂の塔のことなど頭から追い払い、主任司祭と鐘突き男たちには好きなようにさせることにした。

 こうしてある秋の日の午後、住人の中にも聞いた者がほとんどいないという鐘の音がカランに響き渡った。小さな町の人々は仕事の手を休め、イングランド西部でいちばん美しいピールに聞き入った。銀を鳴らすような甘美な高音鐘ベアータ・マリアから、三百年前仕立て屋テイラー同業組合が寄進した低音鐘テイラー・ジョンまで、大小の鐘が一斉に揺れ、鳴り、歌い、無数の小鳥がさえずるような美しい音が空中に満ちた。人々は窓を開け放ち、あるいは店の入り口に立って耳を澄ませた。メロディーは塩沢地の上を越え、ロブスターの罠籠を引き上げていた漁師たちは聞き慣れぬ音楽にただもう呆気にとられて動きを止めた。

 鐘自身も長い休息から解放されて喜んでいるようだった。彼らは夜明けの星のように共に歌い、神の子のように共に歓喜に叫んだ。彼らは往事のことを思い出した。ハーピンドン修道院長に枢機卿の赤帽子が授与されたときに鳴らされ、ヘンリー国王が修道院を解体して信仰を守ったときにも鳴らされ、メアリ女王がミサを復活して信仰を守ったときにも鳴らされ、エリザベス女王がフォーディングにむかう途中、市場を通り、刺繍の入った手袋を贈られたときも鳴らされた。足もとに広がる赤い屋根屋根の下で長きにわたって生と死がせめぎ合ったことを思い出し、数え切れないほどの誕生と結婚と葬式があったことを思い出した。彼らは夜明けの星のように共に歌い、神の子のように共に歓喜に叫び、喜びの声をあげた。

 結局カリスベリから鐘突き男たちがやってきたのだが、ミセス・パーキンは彼らが来ることに前ほど懸念を抱いていなかった。ブランダマー卿が自分のためにどんな礼がつくされたのかを聞き知れば、以前カランの貧民収容施設や老人や学校の子供たちに金を寄付したように、すぐさま鐘突き男たちにも手当をたっぷりはずむだろうと思ったからである。鐘綱も鐘枠も、軸も輪も念入りに点検された。そして当日、鐘突き男たちは男らしく仕事に励み、二時間五十九分をかけてグランドサイア・トリプルズのフル・ピールを鳴らし終えたのだった。

 鐘楼の床の吹き抜け穴から魔術師の腕が取り出したみたいに、ブルティールの店の輝く十ペンス小樽があらわれた。教会事務員ジャナウエイは酒をやらないにもかかわらず、自分も飲みたそうにしながら、泡立つビールの大コップを仕事を終えた男たちに配った。

 「今度はピールが中断されんかったなあ。この古鐘もこれ以上いい突き手が下にいたことはなかったろうし、賭けてもいいが、これ以上いい鐘があんたらの頭の上にあったこともあるまいよ。ええ、どうだい、おまえさんたち。カリスベリの塔で鐘が鳴るのを何度も聞いたし、女王様が即位なさったときも聞いたが、ここの古鐘ほど深くてまろやかな音はせんかった。しばらく休んだおかげでいちだんと音色がまろやかになったのかも知れん。ブランダマー・アームズの地下室にあるポートワインみたいになあ。けれどもエニファー先生の話じゃ、中にはシェリーみたいになっちまって見分けがつかなくなったのもあるらしいよ」

 ウエストレイは主任の裁定に対して忠実な部下らしくひれ伏した。鐘を鳴らしても安全であるというサー・ジョージの決定は若者の肩から責任の重みを取り去ったが、心の中から不安を消すことはなかった。ピールが鳴らされているあいだ、彼は聖堂を離れなかった。最初は釣り鐘室に入って鐘枠の梁にしがみつき、大きな口を開けた鐘が天をむいたり、勢いよく回転して下の暗闇のほうをむくのを見ていた。轟音に耳をつんざかれ、彼は鐘楼まで階段を下り、窓枠に腰かけて鐘突き男たちが上下動する様を見ていた。金属のかたまりが往復運動し、その負荷が塔にかかって落ち着きなく揺れるのは感じたが、その動きには何ら異常はなかった。漆喰がはげ落ちることも、特に注意をひくような何事も起こらなかった。そのあと聖堂まで降りて、再びオルガンのある張り出しへと階段を登った。そこからは後期ノルマン様式のアーチが巨大な曲線を描いて南袖廊の上に架かっているのが見えた。

 アーチの上からランタンまで、彼を大いに不安にさせたあの古い割れ目が、不吉な稲妻のようにジグザグ状に走っていた。その日は曇っていて、空一面に漂う重い雲のかたまりが聖堂内を暗くしていた。中でもいちばん暗い影が落ちていたのは、ランタンの内側を巡る石の通路の下側で、そこに最近塔の補強に使われた重い引っ張り鉄の一つを見て取ることができた。引っ張り鉄がそこにあるのだと思うとウエストレイは嬉しくなった。鳴鐘が塔にかける負担をそれらがことごとく吸収してくれればいいと願った。サー・ジョージの判断が正しく、彼、ウエストレイが間違っていればいいと願った。それでも彼は割れ目に一枚の紙を貼り付け、危険な動きが見られた場合は裂けて警告を発するよう事前に細工をしておいたのだった。

 張り出しの仕切りに寄りかかりながら、アーチが動いているしるしをはじめて見た午後のこと、オルガン奏者が「シャーノール変ニ長調」を弾いてくれた、あの午後のことを思い出した。あれからどれほど多くのことが起きただろう!彼はまさしくこの張り出しで起きた事件、シャーノールの死、悲しい人生に終止符を打った嵐の夜の奇怪な事故のことを考えた。あれはまったくおかしな事故だった。ハンマーを持った男につけられているなどと、気が触れたような想像に取り憑かれ、まさにこの張り出しで足鍵盤に致命傷を負わされたところを発見されたのだ!何ていろいろなことが起きたのだろう——アナスタシアへの求婚と拒絶、そして今そのために鐘が鳴らされている出来事!人生は何と変転きわまりないことか!何世代も時代を超えて、我慢強く、変わることなく立ちつづけてきた、頑として動かぬこの壁に比べれば、自分は、いや、人間というものはなんと短命な生き物だろう。しかし石でできた永遠の現実が、実はことごとくはかない人間によって造られたものであり、またはかない人間である彼が、石でできた永遠の現実を、粉々に崩れ落ちないように、今も忙しく支えようとしているのだと思うとふと笑みがこぼれてきた。

 聖堂の中では鐘の音がやや弱く遠ざかって聞こえた。重い石の屋根を通して届くため、荒々しさが和らげられ、いっそう耳に心地よかった。穹窿天井という弱音器がピールの音を抑えているのだ。低音を響かせるテイラー・ジョンがトレブル・ボブ・トリプルズの複雑な打順に従って奏鳴する仲間たちのあいだを移動していくのが聞こえたが、ウエストレイの耳には低音を響かせる低音鐘のうなり声よりはっきり聞こえる別の声があった。それは塔のアーチの叫び声、カランに来てからというもの耳について離れない小さな静かな声だった。「アーチは決して眠らない」とその声はいった。「アーチは決して眠らない。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」

 突き手たちはピールの終わりに近づいていた。ほぼ三時間をかけて五千四十の転調鳴鐘を打ち終わろうとしていた。ウエストレイが張り出しから下におり、聖堂の中を歩いているとき、最後の転調鳴鐘が打ち鳴らされた。鐘の音の余韻がまだ残り、真赤な顔をした突き手たちが鐘楼でジョッキのビールをがぶ飲みしているあいだに、建築家は足場へむかい、ジグザグ状の割れ目の前に立った。医者が傷を調べるように、彼はそこを注意深く観察し、トマスのように暗い割れ目に手を突っこんだ(註 使徒行伝から)。変わったところは何もない。紙切れは破れておらず、引っ張り鉄は見事にその責務を果たした。やはりサー・ジョージの判断が正しかったのだ。

 彼が調べているとき、ごくかすかな音が聞こえた——囁くような、呟くような声。あまりにも弱々しくて聞き逃してしまいそうな音だった。しかし建築家の耳には雷鳴のように鳴り響いた。彼は正確にその正体を、その出所を知っていた。割れ目を見ると大きな紙切れが半分に裂けていた。それは些細な出来事だった。紙切れは完全に二つに裂けたのではなく、中程まで破れたに過ぎない。ウエストレイはそれから半時間あまり目を離さずにいたが、それ以上は何の変化も起きなかった。鐘突き男たちは塔を出て、小さな町はいつもの活動に戻った。教会事務員ジャナウエイが聖堂の反対側からやって来て、建築家が南袖廊のアーチの下、足場の高いところの横棒から身を乗り出しているのを見つけた。

 「鍵をかけて廻っているんですがね」と彼は大声で話しかけた。「ご自分の鍵はお持ちでしょうな、旦那」

 ウエストレイはほとんど分からぬくらい小さく頷いた。

 「今度は塔が倒れませんでしたなあ」教会事務員は話しつづけた。しかしウエストレイは返事をせず、じっと半分だけ裂けた紙片を見ていた。他のことは何も考えられなかった。一分後、老人も足場にあがって彼のそばに立った。梯子を登って息を切らしていた。「今度はピールが中断されませんでしたなあ。とうとう雲形紋章をやっつけましたよ。ブランダマー卿はお戻りになる。跡継ぎが生まれて一族は御安泰。雲形紋章からちょいと毒気がぬけちまったような気がしませんかい」しかしウエストレイは不機嫌で何も言わなかった。「おや、どうなすったんです。お加減が悪いんじゃないでしょうね」

 「ほっといてくれませんか」建築家は突っ慳貪に言った。「ピールは中断されればよかったんだ。鐘なんか鳴らさなければよかったんだ。見てください」——彼は紙切れを指さした。

 教会事務員は割れ目に近づき、物言わぬ証人をまじまじと見つめた。「へっ!これがなんだっていうんですかい」と彼は言った。「鐘が揺れてこうなっただけでさあ。たかが紙切れですぜ、上でテイラー・ジョンが揺れているってときに、金床みたいにびくともしねえってわけにはいかねえでしょう」

 「いいですか」ウエストレイは言った。「あなたは今朝聖堂にいましたよね。日課で読まれた話を覚えていますか。予言者が召使いを丘の上に送り出し、海の様子を調べさせたというやつですよ。召使いは何度も何度も丘に上がるけれど何も見えない。彼が最後に見たのは海から湧き上がる人の手の形をした小さな雲でした。ところがそのあと天は暗くなり、嵐が吹き荒れたのです。この破れた紙がこの塔にとって人の手でないとは言い切れませんよ」

 「気にするこたあ、ありませんや」と教会事務員が答えた。「人の手は雨が来ることを知らせただけで、しかも雨こそまさしく人々が待ち望んでいたものなんですぜ。どうして一般人は聖書をひねくり回して人の手を悪いものに変えちまうんでしょうなあ。ありゃ、いいしるしなんです。だから安心しておうちに帰り、食事でもなさることです。いくらにらんだって、その紙は元に戻りませんて」

 ウエストレイは彼の言うことを無視し、老人は少々むっとしながらお休みと別れの挨拶をした。「それじゃ」梯子を下りながら彼は言った。「失礼しますよ。暗くなる前に庭に行かないとならないんでね。来週のネギの品評会に備えて、今晩葉っぱを包むんでさあ。去年は孫に一等をとられて、おじいちゃんのわたしは十一位に甘んじましたが、しかし今年はカランで採れたどんなネギにも負けねえやつが六本ほどできましてね」

 次の日の朝までに紙片は完全に破れてしまった。ウエストレイはサー・ジョージに手紙を送ったが、歴史はただ繰り返しただけだった。主任はこの一件を軽く見て、モグラの穴を山と勘違いしてはおらんかね、やけに神経質になっているが、きみは与えられた指示を実行しさえすればいいのだよ、とかなりいらだたしげに言ってよこした。割れ目の上にもう一枚紙を貼ったのだが、これは無傷のままだった。塔は再び動きを止めたようだった。しかし今度ばかりはウエストレイの不安は容易に静まらず、彼は大急ぎで南東の基柱の補強工事を進めることにした。

第二十章

 ウエストレイはアナスタシアにひかれ、あるいは好意を抱き、一時はその感情を愛だと思いこもうとしたが、それも消えてなくなった。心の平静を完全に回復し、結婚の申しこみを拒否された恥辱については、申しこんだときにすでに娘の心は決まっていたのだ、と割り引いて考えることにしていた。いずれにしろブランダマー卿がとてつもない競争相手であることは認めるにやぶさかでないが、同じスタート地点から競争を始めていたなら、彼にも勝ち目は十分あったと思っていた。ライバルには社会的地位と富があるが、こっちには疑いもなく若さと安定した人生と専門的な技術がある。しかしすでに他の男のものである心を自分のものにしようとするのは、水車にむかって槍を繰り出すようなものだ。こんなふうに不快な思いを次第に鎮め、仕事に集中して打ちこむようになった。

 冬の日暮れが訪れる頃、彼は南袖廊の端にある巨大な窓の紋章を解明するという、性にあった暇つぶしを見つけた。そこに輝くさまざまな紋章をスケッチし、郷土史とドクタ・エニファーが貸してくれた小冊子を頼りに紋章の各部分に示される姻戚関係をほとんど突き止めることに成功した。すべてがブランダマー家の結婚に関係していた。ガラス画家ヴァン・リンジは第三代ブランダマー卿までの家系を窓いっぱいにガラスで描き、海緑色と銀色の雲形紋章は窓の上部に大きく出ているだけでなく、何度も繰り返し用いられていたのである。この調査に当たってマーチン・ジョウリフの書類が手元にあったのはありがたかった。建築家の調べ物に関連した情報が満載されていたのだ。なにしろマーチンは出版されたブランダマー家の家系図を入手し、手をつくして結婚と傍系親族のことを調べ上げ、それに補足訂正を施していたのである。

 マーチンの妄想の話を聞き、少年たちに「雲形じいさん」と呼ばれていた、もうろくした老人というイメージがウエストレイの頭の中にでき上がっていたため、はじめて書類をひっくり返したとき、そこにあるのはせいぜい狂人のたわごとでしかないだろうと思っていた。しかしその多くがどれほど連関性のないばらばらのものに見えても、マーチンのメモは極めて興味深く、多かれ少なかれ一つの目的によって貫かれた一貫性のあるものであることが次第に判明してきたのである。果てしなくつづく家系図と、本から書き抜いた一族の歴史の断片、その他にマーチンが旅をしながら得たありとあらゆる個人的印象と経験も記録されていた。しかしこのすべての調査探索はたった一つの目的しか持っていない、と彼は明言している——つまり父の名を突き止めることだ。もっともどんな記録を見つけようとしていたのか、どこで、どんなふうに見つけようとしていたのか、文書、戸籍簿、銘刻、いずれの形で見つかると考えていたのかはどこにも書かれていないけれども。

 自分こそフォーディングの正当な所有者であるという持論はオクスフォード時代に思いついて以来、彼に取り憑き、その後どんな目に遭おうとも払いのけることができなかったのは明らかだった。二親の片一方ははっきりと分かっている。母親は小地主のジョウリフと結婚し、有名な花と毛虫の絵を描き、そのほかいろいろ名誉になるとはいえないことをやらかしたソフィア・フラネリイだ。しかし父親は不透明なヴェールをかぶっていて、マーチンは生涯をかけてそれを引きはがそうとしたのだ。ウエストレイはこんな話を教会事務員のジャナウエイから十回以上も聞いていた。小地主のジョウリフがソフィアと教会に行ったとき、彼女は前の結婚でできた四歳の男の子を連れていた。前の「結婚」で、という点をマーチンはいつもそれが義務であるかのように強調した。それ以外の事情を考えることは自分自身の名誉を傷つけることだった。母親の名誉はどうでもいい。だいたい兵士や馬喰とくっついて自分の評判を無惨におとしめた母親の思い出など、守ったところで何になるというのだ?マーチンが必死になって事実関係を突き止めようとしたのは、この「前の結婚」だった。他の人々が頭を振って、そんな結婚は見つからない、ソフィアは妻でも未亡人でもなかったのだというものだから、なおさら必死だった。

 メモの終わりのほうになると、まるで手がかりが見つかったような——何かの手がかりが見つかったか、見つかったと思っているような書き方になった。このスリッパ探し(註 隠されたスリッパを探し出す子供の遊び)のゲームで彼は目的のものにどんどん近づいていると思っていたのだが、土壇場で死が彼の裏をかいたのだった。ウエストレイは、もう少しで謎が解けるというときにマーチンに最後が訪れてしまった、とミスタ・シャーノールが一度ならず語っていたことを思い出した。シャーノールもあと少しで幻の正体を突き止めることができたのに、あの嵐の晩、運命に足をすくわれたのではなかったか。書類をめくりながらウエストレイの心に様々な思いが浮かび、彼よりも前にこれをめくった人々のことをいろいろ考えた。この書類を書くために無駄な日々を費やし、家庭も家族もなおざりにした、頭はいいけれどろくでなしのマーチン。興奮した手で書類を握り、驚くべき秘密を暴いて自分の人生という暗い舞台に華々しい光を当てようとした老オルガン奏者。読み進むにつれてウエストレイはますます興味をそそられ、もともとブランダマー・ウインドウの紋章を研究するため始めたことなのに、すっかりこちらの調査にのめりこんでしまった。彼はマーチンに取り憑き、オルガン奏者をあれほど興奮させた幻を理解しはじめた。長い間、彼らが求めていた秘密を暴くのは自分の役目であり、自らの手の中にこそ、この奇怪極まりない物語の鍵が握られているのだと考えはじめた。

 ある晩、図面を手にし、マーチンの書類を脇テーブルの上に散らかしたまま椅子に座って暖炉にあたっていると、ドアをノックする音がして、ミス・ジョウリフが入ってきた。ベルヴュー・ロッジを出たにもかかわらず、二人は今でも親しい友達だった。下宿人を失ったことは残念で仕方なかったが、彼の取った行動は正しいし、そうするのが義務ですらあると彼女は思った。こうした場合の作法を守ってくれたことはありがたかった。あのまま下宿に住みつづけることは普通の感覚の持ち主には不可能だっただろう。アナスタシアの手を取ろうとして拒絶されたことは彼にとって精神的打撃だったが、彼女はそれにすっかり同情をしてしまい、犠牲者に対してなにくれとなく配慮を見せようとした。アンスティスがミスタ・ウエストレイを拒絶したことはきっと天がよかれと定めたもうたことに違いないが、ミス・ジョウリフは彼の結婚の申しこみに好感を抱いていたから、それが不首尾に終わったことを当時は悲しんでいたのである。そういうわけで二人のあいだには不思議な気持ちのつながり、拒否された恋人と、彼の申しこみを一所懸命に応援した女性とのあいだによく存在するような気持ちのつながりがあった。以来二人はかなり頻繁に会い、一年がたつとウエストレイの失望も鈍磨し、冷静にその話ができるようになった。彼はあのような不可解な拒絶の理由をミス・ジョウリフと議論したり、申しこむのがもう少し早いか、別のやり方をしていたなら受け入れられただろうか、などと考えることにもの悲しい喜びを感じていた。彼女にとってもそれは不快な話題ではなかった。どこをとっても不足のない最初の申しこみを断り、そのあとで桁違いに好条件の申しこみを受け取った姪を持ち、自分まで栄光に包まれたような気がしていた。

 「申し訳ございません、旦那様サー——ごめんなさいね、ミスタ・ウエストレイ」彼女は二人の関係がもはや下宿の女主人と下宿人のそれではないことを思い出して、そう訂正した。「こんなに遅くお邪魔して相済みません。でも日中はなかなかお会いできませんから。最近ずっと気になっていたんですけど、ミスタ・シャーノールと一緒に買い取ってくれた花の絵をまだ持ちだしていらっしゃいませんでしたね。新居に落ち着くまでお待ちしていたんですけど、もう何もかも片付いただろうと思って、今晩お持ちしましたの」

 彼女の服はもう擦り切れてはいなかったが、それでもごく質素な黒だった。以前は日曜日にしかつけなかった苔瑪瑙のブローチを毎日つけるようになっても、優しくて衝動的なところは少しも変わらぬミス・ジョウリフだった。

 「座ってください」椅子を差し出しながら彼は言った。「絵を持ってきたとおっしゃいましたか」彼はまるで絵が彼女のポケットから取り出されるのを期待しているかのように相手を見つめた。

 「ええ」と彼女は言った。「女中が今、上に運んできます」——「女中」ということばを使うときに、ほんのかすかな躊躇があった。人にかしずかれるという贅沢にまだ慣れていないことのあらわれだった。

 ベルヴュー・ロッジに住みつづけ、召使いを一人雇えるようにと、アナスタシアが差し出す生活費を、彼女はさんざん説得されたあげく、渋々受け取ることにしたのだった。ブランダマー卿が婚約から一週間以内にマーチンの借金をきれいに支払ってくれたときは、どれほど安堵したか分からないが、同時にこのような寛大さは彼女の心をいくつもの心配で満たすことになった。ブランダマー卿は一緒にフォーデングの屋敷に住むことを望んでいたが、思いやりがあり、よく気のつく彼は、そのような変化を彼女が好まないことを見て取るや、無理に勧めることを止めた。そういうわけで彼女はカランにとどまり、今ようやくその存在に気づいた無数の友人たちの訪問を厳かに受け、また聖堂での礼拝や集会、教区の仕事や他の特権を心ゆくまで楽しみながら日々を送っていた。

 「ご親切にありがとう、ミス・ジョウリフ」とウエストレイは言った。「絵のことを覚えていてくださるとは。でも」彼は絵のことを鮮明すぎるくらいはっきり思い出した。「あなたはいつもあの絵を大切になさっていましたね。それをベルヴュー・ロッジから奪ってしまうなんて、わたしにはできませんよ。共同所有者だったミスタ・シャーノールは亡くなって、わたしには半分しか権利がないんですけど、あれは贈り物としてあなたに差し上げます。いろいろ親切にしていただいた、ささやかなお礼のしるしです。実際、ひとかたならずお世話になりましたからね」彼はため息をついたが、それは結婚の申しこみの一件で、ミス・ジョウリフが好意を示してくれたことや、自分が悲しみにかきくれたことを相手に思い出させるためのものだった。

 ミス・ジョウリフはとっさにその暗示を理解した。彼女の声は同情に満ちていた。「まあ、ミスタ・ウエストレイ、ご存じでしょうけど、わたしもあなたが望んだとおりに事が運べばいいのにって心から思っていましたのよ。でもこういうことは天の定めを理解するように努め、悲しみに耐えなければなりません。あの絵のことは、今回だけは、わたしの言う通りにしてくださいな。わたしたちが取り決めたように、そのうち遠からず絵をあなたから買い戻せる日が来ますわ。そのときは絵を返してくださると信じています。けど今はあなたのところになければなりません。それに、もし、わたしに何かがあったら、あれはあなたにしっかり保管しておいてほしいのです」

 ウエストレイはあくまで彼女が持っているように主張するつもりだった。けばけばしい花と緑の毛虫には、もう二度とつきまとわれたくはなかった。ところが、彼にはおかしなくらいよくあることなのだが、彼女が喋っているあいだに急に気が変わったのである。どんなことがあっても絵を手放すな、と異様なくらいしつこくミスタ・シャーノールに頼まれていたことを思い出したのだ。今ミス・ジョウリフが絵を持ってきたのも、摩訶不思議な力が働いたせいではないかと思われ、絵を突き返すのはシャーノールの信頼を裏切ることになりそうな気がした。そこで意地を張るのを止め、「じゃあ、本当にそれでいいのでしたら、しばらく預かることにしましょう。いつでも好きなときに持っていって構いませんよ」と言った。彼が話しているとき外の階段から何かに躓くような足音と重いものを落としたようなごつんという音が聞こえてきた。

 「あのそそっかし屋さん、またやっているわね」とミス・ジョウリフは言った。「躓いてばかりなんだから。彼女が来て六ヶ月のあいだに割った食器は、それまで六年間に割った数より多いと思うわ」

 二人はドアのほうに行った。ウエストレイがドアを開けると大きな赤ら顔をにやにやさせたアン・ジャナウエイが、花と毛虫の華麗な絵を抱えて入ってきた。

 「今までなにしてたの」彼女の主人が厳しく問いただした。

 「すみませんです、奥様」と女中は言ったが、その謝罪のなかには幾分憤りがこめられていた。「このでっかい絵のせいでけつまずいたんですよ。傷ついてなきゃいいんだけど」——彼女は絵を床においてテーブルに立てかけた。

 ミス・ジョウリフは皿のかすかな欠けを見つけ、ティーポットの毛の筋ほどの傷をも見逃さない鍛えられた目で絵をしげしげとながめた。

 「あら、たいへん!」と彼女は言った。「素敵な額縁が台無しだわ。下の枠が外れそうになっているじゃない」

 「まあまあ」ウエストレイはなだめるように言いながら絵を持ち上げ、テーブルに寝かせた。「それほどたいしたことじゃありませんよ」

 額縁の下枠は確かに両端が浮いて、今にもとれそうになっていたが、手で押しこむと元通りに枠にはまり、ちょっと目には毀れたことなど少しも分からなかった。

 「ほらね」と彼は言った。「見た目にはほとんど問題はありません。明日、膠をつければきれいに直ってしまいます。しかし女中さん、よくまあここまで運び上げたものですね——こんなに嵩があって重いっていうのに」

 実を言えばミス・ジョウリフ自身、アンを手伝って絵を運んできたのである。しかしそれは闘牛のムレータのような赤い敷物を敷いた最後の踊り場までのこと。最後のひと登りは女中一人でも心配なかろうと思ったし、絵を運びながらウエストレイの前にあらわれるのは、働かなくても暮らしていけるくらい裕福になった今、自分の新しい威厳を損なうように思われたのだ。

 「そうかっかなさらないで」とウエストレイは頼むようにいった。「ほら、天井下の壁から釘が出ているでしょう。もっといい場所が見つかるまで、当座のあいだ引っかけておくにはちょうどいい。この古い紐もぴったりの長さだ」彼が椅子の上に乗って絵をまっすぐにかけ、後ろに下がってほれぼれと眺めるような様子をすると、ミス・ジョウリフもだいぶ機嫌が直った。

 ウエストレイはミス・ジョウリフが帰ったあとも遅くまで仕事をつづけた。それが片付いたとき、大きな音で時を刻むマントルピースの上の時計はほとんど十二時を指していた。それからしばらく消えかけた火の前で椅子に腰かけ、ミスタ・シャーノールの思い出にふけった。絵を見て彼のことを思い出したのだが、そのうち黒くなった燃えさしが彼に寝る時間だと注意した。椅子から立ち上がろうとしたとき、後ろで何かが落ちる音し、振り返って見ると一時的に元通りはめこんであった額縁の下枠が、それ自身の重みでまた外れてしまい、床に落ちたのだった。今まで何度も思ったことだが、額縁は独特な帯状の模様が交錯している見事なものだった。こんな下手な絵が豪華な額に納まっているのは奇妙なことで、ときどき彼はソフィア・フラネリイが安売りでこの額縁を買い、あとでその中を埋めるために花の絵を塗りたくったのではないかと考えた。

 冬のはじめの夜は火が消えるとさっそく寒気が押し寄せ、部屋の中は急にひえびえとしてきた。ドアの下から冷たいすきま風が吹きこみ、毀れた額縁の下に落ちていた何かをひらひらと動かした。ウエストレイが屈んで拾い上げると、それは折りたたんだ紙切れだった。

 その紙に触れることは奇妙なくらいためらわれた。彼はおよそくだらないことで良心のとがめを感じることがしばしばあったが、そのときもそれに襲われたのだ。自分にはこの紙を調べる権利があるだろうか、と彼は自問した。手紙かも知れないし、どこから出て来たのかも、誰のものかも分からない。他人の手紙を開けるような罪深い真似はまっぴらである。伝説の幽霊捕鯨船フライング・ダッチマンによって手紙の束を甲板に置いて行かれた船長さながら、彼は厳粛な面持ちでそれをテーブルの上に置きさえした。しかし数分後にはその馬鹿馬鹿しさに気づき、注意しながら謎の紙を広げた。

 それは古びて黄色くなった細長い紙で、一昔前から広げられぬままおかれていたため幾つもしわが寄っていた。印刷された文字もあれば手書きの文字もあった。それが結婚証明書であることは即座に分かった——法も予言者もしばしば判断の根幹にすえる、あの「結婚証明書」である(註 マタイ伝から)。印刷の細かな空白部分はことごとく書きこみで埋めつくされ、「千八百年三月十五日、セント・メダード・ウィジン教会にて、紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズの息子、独身者ホレイシオ・セバスチャン・ファインズ二十二歳は、商人ジェイムズ・フラネリイの娘、未亡人ソフィア・フラネリイ二十一歳と結婚」したことが証人たちの型通りの宣誓とともに記されていた。その下には乱れた読みにくい字で、今はもう黄色に変色したインクの書きこみがあった。「千八百一年一月二日夜十二時十分過ぎ、マーチン誕生」。彼は紙をテーブルに置き、平らに伸ばした。目の前にあるのはマーチンが一生涯かかって探し、見つけられなかった母親の最初の結婚(唯一の本当の結婚)の証明書だった。マーチンが死の直前につかみかけていた嫡出の正統性のあかし、シャーノールもやはりあと少しでつかめると思っていたのに死に襲われてしまった手がかりだった。

 千八百年三月十五日、ソフィア・フラネリイは結婚特別許可により紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズと結婚、千八百一年一月二日夜十二時十分にマーチンが生まれた。ホレイシオ・セバスチャン——この名前をウエストレイは何度も耳にした。この紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズの息子、ホレイシオ・セバスチャン・ファインズとは誰だろう。彼の自問は形だけのものだった。答はちゃんと分かっていたのだ。目の前のこの書類は法的な証明とはならないかも知れないが、キリスト教国の法律家が束になっても、ソフィア・フラネリイが結婚した「紳士」が三年前に八十代でなくなったブランダマー卿に他ならないという彼の確信、直感を変えることはできなかっただろう。彼の目には黄ばんだ紙に揺るぎない権威が備わっているように見えたし、下の隅にのたくるような筆跡で書き留められたマーチンの出生日は、彼が得た情報ともぴたりと一致した。彼は寒さの中、再び椅子に腰かけ、テーブルに肘をついて頭を抱え、この命題に付随するいくつかの結論を引き出した。もしも先代のブランダマー卿が千八百年三月十五日にソフィア・フラネリイと結婚していたのなら、彼の二回目の結婚は無効ということになる。なぜならソフィアはそれ以後もずっと存命だったのだし、離婚手続きは取られなかったのだから。しかし二回目の結婚が無効であるなら、カラン湾で溺れ死んだ息子のブランダマー卿は非嫡出子であり、その孫で現在フォーディングという玉座に座っているブランダマー卿も非嫡出ということだ。マーチンの夢は正しかったのだ。わがままで、浪費家で、怠け者で、子供たちに「雲形じいさん」と呼ばれていたマーチンは結局気が狂っていたのではなく、本当にブランダマー卿だったのだ。

 すべてがこの紙切れに、この青天の霹靂に、どこからともなくあらわれたこのメッセージにかかっている。いったいどこから出て来たのだ?ミス・ジョウリフが落としたのだろうか。いや、そんなはずはない。マーチンの書類の錯綜した謎を解こうと、彼が何ヶ月も努力していることを知っているから、こういう情報があれば必ず彼に報告したはずなのだ。きっと絵の後ろに隠されていて、下枠が外れたときに落ちたに違いない。

 彼は絵に近づいた。けばけばしい、へたくそな花を生けた花瓶、机の上をのたくる緑の毛虫、しかし下の部分には今まで見たことのなかった何かがあった。枠が毀れてとれてしまった部分に細い筋となって別の絵がのぞいていた。花の絵は別の絵の上に塗り重ねられたようだった。まるでソフィア・フラネリイは画布を取り出しもせず、額縁の端まで稚拙な絵を描きこんだように思われた。この花がもっとできのいい絵を隠していることは疑う余地がなかった。それはきっと肖像画なのだろう。底の部分には茶色いビロードの上着と、茶色いビロードの胴着の真鍮のボタンすら見て取ることができた。彼は蝋燭を近くにかざして幾分なりとも輪郭がたどれはしまいか、背後に描かれているものの形が見定められはしまいかと花の絵をじっと見た。しかし絵の具は容赦なく塗りたくられ、覆いを見透かすことは難しかった。緑の毛虫さえ彼をあざ笑っているようだった。というのはよく見ると、ソフィアは微妙に色づかいを変えて頭の部分に二つの目とにやりと笑った口を茶目っ気たっぷりに描きこんでいたのだ。

 彼はもう一度、証明書が広げられたままのテーブルに座った。このマーチンの誕生日はソフィア・フラネリイが書きこんだものに違いない。浮気者で責任感がなく、みずからが描いた花のように見てくれだけで、みずからが描いた毛虫の顔のように人を小馬鹿にしたソフィア・フラネリイが。

 物音一つしない静寂、真夜中過ぎの田舎を包む完全な沈黙があたりを蔽っていた。大きな音で時を刻むマントルピースの時計だけが時間の経過を告げていたが、とうとう聖セパルカ大聖堂の組み鐘が「新しき安息日」をかなで沈黙を破った。三時だった。部屋の中はすっかり冷え切っていたが、その程度の寒気は胸の中にはい上ってくる寒気に比べれば何ほどのものでもない。今こそ真相を突き止めた、と彼は思った——アナスタシアの結婚の秘密、そしてシャーノールとマーチンの死の秘密を知ったのだ。