「叔母さんたら」とアナスタシアは口をはさみ、その本気で非難する口調に叔母は驚いた。「お願いだからそんなふうに言うのは止めてちょうだい。ミスタ・ウエストレイをわたしの恋人だなんて呼ばないで。言ったでしょう、あの人とはこれからも何の関係もないんだって」
ミス・ジョウリフの思いは大きく弧を描いて動いた。結婚の申しこみが断られ、縁談は破談というなりゆきに直面し、それがもたらすはずの利点が急にくっきりと見えてきたのである。興味津々のドラマが始まったと思ったらさっそく幕が閉まり、よきものをつかんだと思ったら、とたんに指のあいだからこぼれ落ちてしまう。これではあまりにも残念だと思った。数分前に彼女を悩ました孤独な老後の恐れなど今は考えようともしなかった。彼女が見ていたのはアナスタシアがわがままにも犠牲にしようとしつつある将来への備え、それだけだった。手はいつの間にか握りしめられ、持っていた縦長の紙片をくしゃくしゃにしてしまった。それはたかが牛乳屋の請求書に過ぎなかったけれども、もしかしたらそれが無意識のうちに彼女の考え方を実利主義的な色合いに染めていたのかも知れない。
「せっかく差し出していただいた良いものを断ったりするものではありません」彼女は少々改まって言った。「よくよく考えて、そうするのが正しいというのでなければ。わたしに何かあったら、アナスタシア、あなたはいったいどうなるの」
「それこそ彼が言っていることよ。彼がつけこんでいるのはまさにその点なのよ。どうして悪いほうにばかり考えるの?何かが起きたら、それはいつも悪いことなの?いいことがあるって期待しましょうよ。別の人からもっといい申しこみがあるって」彼女は笑い、それから考えこむようにこう付け加えた。「ミスタ・ウエストレイはこの下宿に戻ってくるつもりかしら。帰ってこなければいいけど」
そのことばを口にしたとたん、彼女は後悔した。ミス・ジョウリフの顔に悲しげな色がさっと広がるのを見たのだ。
「叔母さん」と彼女は叫んだ。「ごめんなさい。そんなこと言うつもりじゃなかったの。分っているわ、わたしたちがどんなに困るか。最後の下宿人をなくすわけにはいかないわね。わたし、戻ってきてくれたらいいと思う。家計の足しになるなら、あの人と結婚すること以外、何でもするわ。自分でお金を稼ごうと思っているの。わたし、書くわ」
「何て言って書くんだい?誰に宛てて書くんだい?」ミス・ジョウリフはそう言って、虚ろな表情をいっそう虚ろにし、ハンカチを取り出した。「わたしたちを助けてくれる人なんていないのよ。わたしたちのことを気にかけてくれるような人はとうの昔に死んでしまった。もう手紙を書く相手なんて誰もいないのよ」
第十七章
ウエストレイははねつけられた恋人の役をすこぶる良心的に演じた。結婚を申しこんで一蹴されるという一幕を厳密に型通り表現したのである。人生の灯は消えた、自分こそこの世でもっとも不幸な人間であると、自分にも母親にも言い聞かせた。「秋」と題する詩を書いたのはこの時期である。それは
望みは冷たく死に絶えて
落ち葉のごとく散りはてる
というリフレインを持ち、クラプトン・メソジスト紙に掲載された。そののち、とある若い女性が、また一つあらわれた傷心をいやそうとして曲をつけてくれた。ベッドの中で一晩じゅう目を開けていようとして、あまり成功はしなかったのだが、会話の時は不眠症がその犠牲者に与える沈鬱な気分についてそれとなく語ったりした。嫌いな食べ物がでれば喜んで立てつづけに食事をしたくないと言い、母親は彼の健康状態を真剣に案じた。彼女はアナスタシアが息子を拒否したことを口を極めてののしったが、アナスタシアが申しこみを受け入れていたらもっと痛烈にののしっただろう。息子の前で大げさな重苦しい表情をして彼をうんざりさせ、またレディ・クララ・ヴィア・デ・ヴィアの残忍さが誠実な心を苦悩に陥れた故事を引き(註 テニソンの詩から)、はねつけられた恋人さえこのあまりに筋違いなたとえに苦笑せざるを得なかった。
ミセス・ウエストレイはアナスタシアが嫁に来なかったことをさんざん罵倒したが、心の中ではそういう結果に終わったことを大喜びしていた。ウエストレイは正直なところ喜ぶべきなのか悲しむべきなのか分からなかった。彼は自分がアナスタシアを深く愛しており、この愛は彼女を悪から守ろうとする騎士道的な志によって崇高なものにまで昇華されていると信じていた。しかし見逃すことができないのは、この不幸な出来事のおかげで、少なくとも下宿の女主人の姪と結婚するという、前代未聞の事態は避けられたのだということである。彼は自分が心から深く悲しんでいると思いこもうとしたが、結局のところ悔しさと屈辱が彼の気持ちの大部分を占めているのではないかとも思われた。他にも考えたことはあったが、この深刻な悲劇のさなかに似合わぬ不謹慎な考えであると、頭の中から追い出した。しかし、にもかかわらず、それらは目に見えないところで心を慰める穏やかな効き目を放っていたのである。早すぎる、金のない結婚という不安を免れることができたのだ。家族を養う労苦によって仕事が邪魔されることはないのだ。全世界がもう一度目の前に広がり、また新たにやり直すことができるのだ。これらは決して看過できない、大切な点なのだが、胸を刺す悲しみが他のあらゆる感情を圧倒すべきときに、こうしたことをむやみに強調するのはどうも具合が悪いのだった。
彼はサー・ジョージ・ファークワーに手紙を書き、気分がすぐれないことを理由に十日間の休暇を得た。ミス・ユーフィミアには別の下宿を探す旨を伝えた。この措置は最初から取らざるを得ないと思っていた。ベルヴュー・ロッジに居座りつづけて、アナスタシアの姿を見、あるいは偶然彼女と話をすることで、日々悲しみを新たにしたり、日々傷口が開いたりするのは耐え難かった。言うまでもなく、この決断には傷つけられた自尊心への譲歩が一部含まれている。男は壊滅的な敗北を喫した場面を好んで再び訪れたりはしない。それにお湯が欲しいと呼び鈴を鳴らして振られた恋人を呼び出すなど、考えただけでもどこかグロテスクである。手紙で別の下宿を探すのは造作もなかった。教会事務員のジャナウエイに頼んで荷物を移してもらうことにしたので、本人が以前の住居に戻る必要はまったくなかった。
一ヶ月後のある朝、ミス・ジョウリフは生前ミスタ・シャーノールが使っていた部屋に腰かけていた。アナスタシアが保母兼家庭教師の口を求むという広告を出しにカラン・アドバタイザー紙の事務所へ行ったため、彼女は一人だった。日差しの明るい朝だったが空気は冷たかった。火床に火が入っていなかったので、ミス・ジョウリフは白い手編みの古ショールをぎゅっと身体に巻き付けた。火がないのは金がないせいだが、しかし窓を通して入って来る光はその部屋を台所よりも暖かくしていた。台所の残り火は朝食のあと消えるにまかされていた。天気のいい秋の日は、彼女とアナスタシアは火をたかずに石炭を節約していたのだ。同じ理由から二人は冷たい夕食を取り、早々に床に就いたのだが、それでも地下室の蓄えは徐々に減っていった。ちょうどその日の朝、ミス・ジョウリフは蓄えを調べて、残りがほとんどないことを知った。それを補充する金もなかったし、もう掛け買いもできなかった。
彼女の前のテーブルには山のような紙切れがあった。黄色いのや、ピンク色のや、白いのや、青いのがあったが、どれもきちんとたたまれている。それらは同じ幅になるように縦に折られていた。マーチン・ジョウリフの請求書である。彼は自分の習慣に関しては厳密といっていいくらい細かな注意を払い、秩序を重んじた。確かにそのうちの何枚かは彼女への請求書であったけれども、彼女はいつも兄のやり方を寸分違わず順守し、請求書に折り目をつけ、かつ表に摘要を書き記した。そう、何枚かは直接彼女に責任があり、どれが彼女のものかは開かずとも表を見ただけで分かった。その一枚を取り上げてみると、「ローズ・アンド・ストーリー服地店、フランス製婦人服飾品、花、羽毛、リボン等輸入業者、マント及びジャケット展示室」とある。ああ、何ということだろう!人間とは何と弱いものだろう!逆境のさなかにあっても、翳り行く老いのさなかにあっても、こうしたことばはミス・ジョウリフの心をときめかせた——花、羽毛、リボン、マント、そしてジャケット。目の前にカラン市場十九、二十、二十一、二十二番地の華やかな展示室が浮かんできた——仕立てたドレスが身体に合うか試着する、夏の朝の厳かな静けさに包まれた展示室。売れ残り商品のセールに人で埋まり、栄光に満ちた争奪戦が繰り広げられる展示室。「自宅用及び訪問用喪服、衣装、スカート、その他。外国及び国内産シルク仕立て保証付き」そのあとに書き記されていることは単なる興ざましとしか思えなかった。「ボンネット用材料及び飾り、11シリング9ペンス、帽子、13シリング6ペンス、合計1ポンド5シリング3ペンス」こんなものはがたがた騒ぐほどのものではない。アナスタシアの帽子のほうが1シリング11ペンス高かったけれど、さくらんぼの飾りとスパンコール付きのネットはその差額分の価値が十分あった。
ホール薬剤店「咳止めドロップ、1シリング6ペンス、塗布剤、1シリング、混合薬、1シリング9ペンス」これが何度も繰り返されている。「タラ肝油、1シリング3ペンス、2シリング6ペンス、そしてまた1シリング3ペンス。計2ポンド13シリング2ペンス、利子、4シリング8ペンス」利子というのはこの請求書が四年前のものだからである。これはアナスタシアが重病になってどんな薬も効かないように思われたときの出費。エニファー先生は肺病じゃないかと心配していた。マーチンの薬代はみんなエニファー先生が自腹を切って出してくれた。
靴屋のピルキントンからも請求が来ていた。「ミス・ジョウリフ、レースの半長靴、三重底、1ポンド1シリング0ペンス。ミス・A・ジョウリフ、レースの半長靴、三重底、1ポンド1シリング0ペンス。モヘアの靴紐六組、9ペンス。シルクの靴紐三組、1シリング」そうよ、わたしは罪深い女だわ。これだけの借金を「重ねた」のは、他でもない、このわたしなんだわ。見るに耐えない紙の山を築くのにみずから手を貸していたのかと思うと顔が赤くなった。
公共の利益に反するあらゆる習癖と同じく、借金にはいつか懲罰がもたらされる。近隣に迷惑をかけるやり方に、社会は懲らしめを与えて自分を守ろうとするのだ。借金する特殊な才能と能力を生まれながらに持っている人がいることは事実である——彼らはその才能を使って楽しく生きていく。しかし負債を抱える者はたいてい鎖の重みを感じ、金をだまし取られた貸し主よりももっとつらい思いをしているものだ。挽き臼はゆっくり廻るが、粒を細かく砕く。未払いの借金はそれで買った品物がもたらした悦びよりも、もっと大きな苦痛をもたらす。そうした苦痛の中でも間違いなく最大のものは、すでに使い古されてしまった物——擦り切れたドレス、しおれた花、空になったワイン——への請求書である。ピルキントンのブーツも、どれほどしっかり三重底になっていようと、永遠に履きつづけることができるわけではない。ミス・ジョウリフは無意識のうちにテーブルの下に目をむけ、どちらのブーツの側面にも縦のひび割れが走り、白い裏地をのぞかせているのを見た。これからどこで新しいブーツを手に入れればいいのだろう。着る物は?パンは?
いや、それどころではない。借金の相手が何もせず我慢していた日々は終わったのだ。彼らは行動に移りはじめた。カラン水道会社は水道を止めると言い、カランガス会社はガスを止めると警告してきた。牛乳屋のイーブスは長い長い勘定(すべてわずか一パイントの牛乳の料金)を今すぐ精算しなければ召喚状を出してもらうと脅してきた。状況は縦走歩兵の最後列を戦闘に投入するところまでいっており、ミス・ジョウリフの体面は潰され、最後の兵士たちは浮き足立っていた。どうしたらいい?誰に助けを求めたらいい?家具を売らなければならないが、誰があんな古い物を買うだろう。それに家具を売ってしまえば、半ば空になった部屋に下宿しようとする人はいない。彼女は絶望してまわりを見回し、紙の山に両手を突っこみ、熱に浮かされたように引っかき回した。もう一度少女の頃に帰ってウィドコウムの牧草地で干し草をひっくり返しているようにすら見えた。そのとき外の舗道から足音が聞こえた。一瞬アナスタシアが予定より早く帰ってきたのかと思ったが、足音の重々しさは、それが男性であることを示していた。目をやると従兄弟で教区委員兼肉屋のミスタ・ジョウリフだった。でっぷりした不格好な姿が窓を水平に横切った。彼は間違っていないことを確認するように、立ち止まって家を見上げ、それからゆっくりと半円形の石段を登って、呼び鈴を鳴らした。
彼は本当は背が高いのだが、その高さが目立たぬくらい、途方もなく太っていた。顔は大きく、だぶだぶの二重顎が締まりのない印象を与えた。顔色は白く、残っているごま塩の髪をまっすぐ下になでつけ、こびへつらうような口調のせいでいっそう信心深げな様子に見えた。ミスタ・シャーノールは彼のことを偽善者と呼んだが、その手の非難が大抵そうであるように、その非難も正しいとは言えなかった。
厳密、純粋な意味での偽善者は小説のページの外にはめったに存在しない。牧師の奨励を受けてペテンが蔓延する下層階級を除いて、人間は一時的な利得や目的達成のために宗教という衣を意図的に纏うことはまれである。公言するところと実際が十分に合致せず、口やかましい連中が文句を言うとしても、そうした場合の十中八九は目的をやり遂げようとする意志の弱さ、人間の性格の二重性に起因する不一致であり、意識的なごまかしではないのである。卑しむべき生活を送っていた者が、宗教的な、高尚な、清らかな社会に住み、あたかも自分が宗教的な、高尚な、清らかな人間であるかのごとく話し、あるいは振る舞うとしても、それは十中八九だまそうという明らかな意図があってのことではなく、優れた人々に一時的に影響された結果なのである。そのあいだ彼は自分の言うことを信じ、また信じていると自分に言い聞かせるのだ。厚かましい相手といるときは厚かましくなるように、正しい人々といるときは正しくなり、心根が優しく敏感であればあるほど、一時的な影響を受けやすいのだ。偽善といわれるものは、このカメレオンのような適応性のことである。
従兄弟のジョウリフは決して偽善者ではない。自分を照らす光にふさわしい行動をしているだけなのだ。かりにその光が薄暗い、脂で汚れた、悪臭を放つパラフィン・ランプの光だったとしても、それにふさわしく振る舞おうと心がける者こそ、いっそう哀れまれるべきである。従兄弟のジョウリフはいわゆる素人聖職者の一人で、宗教を話題にし、教会の問題に関心を示し、聖職に就かなかったために己の天職を逃してしまったような人物だった。参事会員パーキンが高教会派なら、従兄弟のジョウリフも高教会派になっていただろう。しかし参事会員が低教会派だったので、従兄弟のジョウリフは自分でも喜んで言うように熱心な福音教会員になった。主任司祭の教区委員で、祈祷会では主導的な立場にあり、学校の慰安会、ハム・ティー、幻灯機に目がなく、一度ならずカリスベリのミッション・ルームで補佐を頼まれたというのが自慢だった。そこでクライストチャーチの教区主管代理が大聖堂の厳粛な雰囲気に包まれて信仰復興伝道集会を開いたのである。ユーモアのセンスや心の細やかさなどはかけらもなく——尊大で、自分の役職を鼻にかけ、さもしいくらいに節約家だったが、しかし彼は自分を照らす光にふさわしく振る舞っていただけで、決して偽善者ではなかった。
カランの生活の中核をなす、あの偏狭でけちくさい、見栄ばかり張る、俗物だらけの中流階級のなかで、彼は絶大な影響力と権威を保っていた。彼の身近にいる人々にとって、教区委員ジョウリフの一言は部外者が想像する以上の重みを持ち、長いあいだの習慣で、彼はその地域の風紀係という、厄介な役職を与えられていた。教区民の妻がカリスベリの劇場というような誘惑の場に足を踏み入れたり、夏の夕暮れ、ブルティールの息子に買ったばかりのボートに乗せてもらっているのを目撃されたら、教区委員はその夫に面会し、醜聞が囁かれていることをこっそり教え、自分の家族をきちんと監督するのが彼の義務だと諭す役をまかされるのだ。夫がブランダマー・アームズの酒場で女といちゃつき浮気心に火を灯そうとしていたら、その妻に夜は外出させないように手を打てと耳打ちする。若者が安息日の午後をカラン・フラットで犬と散歩しながら無駄に過ごしていたら、「テシベの警告、主日遵守の必要性について」という本が送られる。お下げ髪のはねっかえりが大聖堂の家族席でグラマー・スクールの生徒たちを見てげらげら笑ったら、その不品行は教区委員から母親に通知される。
そうした際にはフロックコートにシルクハットと念入りに身なりを整えた。どちらもすっかり擦り切れ、一昔前の仕立てだったが、彼にはそれが自分の役職をあらわすしるしのように思われ、コートの裾が膝に当たるのを感じると、まるで大司祭アロンの装束の裾が当たっているような気分になった。ミス・ジョウリフはこの日の朝、彼がそんな服装をしていることにすぐ気がついた。改まった用事の訪問と察した彼女は、急いで紙切れを引き出しに突っこんだ。それら請求書が罪深いもののように思われ、ただ「目を通した」だけなのに、やましい行為を犯していたような、してはいけないことをしているのがばれてしまったような気がした。しかしいちばん後ろめたかったのは、この不名誉な紙切れを泡食って隠そうとする、まさにその行為であったのだけれども。
彼女は心にとんぼ返りをうたせるように気分を変え平静を装うとした。偽金造りが警察の訪問を迎えるときのような、やけくそ混じりの無理矢理作った落ち着き、不倫相手のキスの感触を唇に残したまま夫のもとへ帰る女のような冷静さだった。実際気分を変えたり、心中に燃えさかるこの上なく深い思慕の念、あるいはこの上なくつらい思いをさらりと忘れたり、つまらない会話で首尾一貫した受け答えをなしたり、心臓の高鳴りを抑えるというのは、とんぼ返りをうつような大技である。この大技はミス・ジョウリフのよくなし得るところではなかった。彼女は大根役者に過ぎず、教区委員はドアが開けられたとき彼女がおどおどしているのを見て取った。
「やあ、おはよう、
「あら、とんでもない」動悸のする心臓が許すかぎり、なめらかにしゃべりつづけようとして彼女は必死だった。「あなたがいらっしゃったので少しびっくりしたのよ。ちょっとだけ慌てたわ。もう昔のように若くないから」
「そうだね」ミスタ・シャーノールの部屋に通されながら彼は言った。「わたしたちはみんな老いていく。外を歩くときは気をつけなければならないね。いつ天に召されるか分からんから」まじまじと同情するように見つめられ、彼女は自分が本当によぼよぼの老人になったような気がした。すぐにでも本当に「天に召される」べきであるような、ただちに死なないのは義務を怠っているかのような感じだった。彼女は手編みのショールを痩せた震える肩にいっそう強く引きつけた。
「この部屋は少し寒いでしょうけど」と彼女は言った。「今、台所の煙突を掃除してもらっているの。それでここに座っていたのよ」彼女は素早く机に視線を送った。引き出しをしっかり閉めただろうか、請求書を一枚しまい忘れていないだろうか、と不安に思ったのだ。そんなことはなかった。何もかも安全なところに隠れていたが、彼女の言い訳は教区委員をごまかすことはできなかった。
「フェミー」彼は優しくそう言ったが、そのことばを聞いて彼女の目に涙がたまった。マーチンが死んだ夜以来、子供の頃の呼び名で話しかけてくれる人が誰もいなかったのである——「フェミー。暖房費をけちってはいけないよ。そりゃ、間違った節約だよ。あとで石炭券を送らせてくれ」
「お志は嬉しいけど結構よ。十分ありますから」彼女は急いでそう言った。ドルカス会の一員である彼女にしてみれば、教区の石炭券をもらったなどと言われるくらいなら、さっさと飢え死にしたほうがましである。彼はそれ以上彼女を説き伏せようとはせず、差し出された椅子に腰かけ、いささか居心地の悪い思いを味わっていた。身なりが立派で恰幅がよすぎる男が貧乏を前にしたときに当然感じる居心地の悪さだった。確かに彼女にはしばらく会いに来なかった。しかしベルヴュー・ロッジは遠く離れているし、彼は教区の世話や自分の仕事に追われていた。おまけに二人の歩む人生はあまりに違いすぎる。親類の女性が下宿を経営することにはもちろん強い反対があった。彼は今、同情心からつい「
「ちょっと相談したいことがあってね」と彼は言った。ミス・ジョウリフは心臓が喉元まで飛び上がった。あの恐ろしい借金のことも、法廷に召喚すると脅されたことも知られてしまったのだろうか。
「ざっくばらんに言うよ。わたしは商売人で率直な人間だから、率直な話し方が好きなんだ」
こうしたことばがどれほど失礼極まりない、不人情な、でたらめな発言の先触れとして使われているか、まったくあきれるほどである。しかも率直な話し手を自称する当人たちが、反対の立場になって率直に話しかけられることをどれほど厭がることか。
「いまさっき、外を歩くときは気をつけて歩かなければならんと言ったが、ミス・ジョウリフ、わたしたちが監督を任された人にも気をつけて歩くよう指導しなければならんよ。あんたを非難するつもりはないけれど、他の連中が姪をもっとよく見張るべきだと言うんだよ。とある貴族がやたら足繁くこの家を訪ねてくるね。名指しはしないけれども」——と、いかにも雅量があるような口調だった——「しかし誰のことかは分かるだろう。このあたりで貴族なんてそうお目にかかるものじゃないから。こんなことを言わなければならないとは残念だよ。普通は女性がめざとく見つける事柄だからね。しかし教区委員として町の噂に耳を閉ざすわけにはいかない。しかも同姓の人が当事者とあっては」
ミス・ジョウリは肉屋のことばを聞いて虚しく求めていた心の平静を取り戻した。一つにはもっとも懸念していた借金の話ではないと安心したからであり、また一つには彼がアナスタシアのことを話すのを聞いて驚き憤慨したからである。彼女は態度どころか外見すらも一変させ、その鋭い返答の中に先ほどのうちひしがれた失意の老女を見いだすことは誰にもできなかった。
「ミスタ・ジョウリフ」彼女は辛辣な重々しい声で相手の名を呼んだ。「失礼ですけれど、問題の貴族のことはあなたよりもずっとよく存じていますわ。あの方が一点の疑いもなき紳士であることはわたしが保証します。この家を訪ねて来るのは、大聖堂修復の件でミスタ・ウエストレイに会うためなのです。教区委員ともあろう人が立派な方々の醜聞を触れ回るとはよもや思ってもいませんでした。貴族が聖堂に関心をお示しになっても教区委員が陰口をたたくようでは熱意も失せるというものですわ」
彼女は従兄弟がたじろいでいるのを見て、敵の領土に攻めこんでもう一突きを加えてやろうとした。
「もっともミスタ・ウエストレイのほかに、わたしにも会いにいらっしゃるということもあるんですのよ。それにも文句をおつけになる気?御前様はこの家でお茶をお飲みになり、わたしに名誉をほどこしてくださいます。他の大勢の人だって、御前様がお訪ねになりたいと言ったら、秘蔵の食器を持ち出してお持てなしするでしょうよ。それにあの方の例にならってもう少し友達や親戚の家を訪問して欲しい方もいますわね」
教区委員はもう一度顔を拭いて、小さく吐息をついた。
「これは慮外なことをおっしゃる」教育のない男は本で覚えた表現を嬉しそうに使うが、まさにそんな様子で彼は自分のことばを繰り返した——「これは慮外なことをおっしゃる、醜聞をばらまこうなんて——醜聞なんて言い出したのはあんたのほうですぞ——しかしわたしにも娘たちがおりますからな、変な影響があっては困るのですよ。アナスタシアのことをとやかく言うつもりはない。いい子だと信じているよ」——その見下すような態度はひどくミス・ジョウリフの神経に障った——「もっと日曜学校に興味を持つべきだと思うが。だがね、あの娘は身の程知らずの振る舞いや気取ったしゃべり方をする。あれじゃ人目をひいてしまう。止めたほうがいいですな。人に雇ってもらって生計を立てようとしているんだから。ブランダマー卿のこともとやかく言うつもりはないよ——聖堂のことを真剣に考えてくださっているようだし——しかし噂が本当なら、先代の御前様といい勝負ということになるね。それに、ミス・ジョウリフ、あんたの側の家系にはいろいろなことがあったから、血縁者としてアナスタシアのことが心配になるんだよ。父親の罪は三代か四代あとにまたあらわれるというしね」
「いいこと」ミス・ジョウリフはこの一言を発したあとにぞっとするような間を置いた。「人の家に来て誹謗中傷するのがあなたの側の家系のやり方だとおっしゃるなら、わたしはそっちの家系に属してなくてよかったわ」
自分の発言のゆゆしさは理解していたが、一歩も譲る気はなかった。ナポレオン一世の親衛隊にもふさわしい堂々たる自信のある態度で教区委員の反撃を待った。しかしそのあとに訪れたのは猛然たる論戦ではなく、短い沈黙だった。品位を落とすことなく会見を終えようと思うならここが止め時だっただろう。しかし凡人にとって自分の声は音楽、それに酔うと情けない結末が待ち受けていることなど分からなくなるのだ。議論のための議論がつづき、英雄詩で始まったものが支離滅裂ないがみ合いに終わってしまう。二人はどちらも言い過ぎたと思い、中心問題に決着をつけず、放置することで満足した。
ミス・ジョウリフは教区委員が帰ってから再び請求書を引き出しから出すことをしなかった。それまでの気分とは打って変わって、しばらくのあいだ、来訪者がほのめかしていったことしか考えることができなかった。ブランダマー卿の訪問は、どんな折の訪問もはっきり思い出すことができる。卿の動機を疑うなど、まるで根拠のないことだと確信していたが、しかし彼女がいないときにベルヴュー・ロッジに来たことが一再ならずあったことは認めなければならなかった。もちろん単なる偶然だろうが、われわれは鳩のように無垢であるとともに、蛇のように狡猾であることも要請される。彼女は二度と取り沙汰されることがないよう注意することにした。
アナスタシアが帰ってみると、叔母はいつもと違ってよそよそしく無口だった。ミス・ジョウリフは姪に落ち度は何もないのだからいつも通りに接しようと決めていたのだが、教区委員の話に腹の虫が治まらなかったのだ。その態度があまりにも不可解で、冷たくつんとしているものだから、アナスタシアは何かひどく不愉快なことがあったのだろうと思った。アナスタシアが今朝の天気はうっとうしいと言うと、叔母は顔を蹙めてぼんやりしたまま何も答えなかった。アナスタシアが十四号針を手に入れることができなかった、お店が切らしていたのだというと、叔母は「そう!」となじるような、あきらめたような調子の声を出した。この世界には編み針よりもはるかに大切なことがあるとでも言うように。
この状態は半時間あまりもつづいたが、しかし心優しい老人にはそれ以上取り澄まして横柄に構えることはとてもできなかった。彼女の性格である穏やかな温かい心が冷たい外面を溶かしてしまった。自分の気まぐれを恥じ、アナスタシアに格別の愛情を示すことで「償い」をしようと思った。しかし姪が探りを入れてきてもはぐらかし、従兄弟のジョウリフがほのめかしたことも、彼が家に来たことすらも知らせまいとした。
アナスタシアは何一つ事情を知らずにいたが、それにしてもその無知は並外れているようだった。カランの人はみんな知っていた。噂になっていたのである。教区委員は数名の古老に相談し、忠告をしに行くことが適切かどうかを諮った。古老たちは男も女も彼の行動を承認し、今度は彼らが親しい、特に信頼している友人に秘密を打ち明けた。その後、陰険なゴシップ屋ミス・シャープが、嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントに話し、嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントは、そのことを主任司祭に詳細に報告した。彼は噂話なら何でも好きだった。とりわけ刺激的な噂は大好きだった。ブランダマー卿が神の手(下宿屋のおかみが酒場をベルヴュー・ロッジと名づけるなど笑止千万!)を「昼も夜も」「あらゆる」時間に訪れ、ミス・ジョウリフがその時喜んで天井をむき何も見てないふりをするということは、瞬く間に皆の知れるところとなった。いや、それどころか、彼女が集会に出席するのは彼らの邪魔にならないようにするためだとまで言われた(ドルカス会の集会を口実にするとはなんたる許し難き偽善!)。さらに、ブランダマー卿はあの小生意気なろくでなしの娘にひたすら——それこそ山のように——贈り物を捧げ、若い建築家でさえその不名誉な事態の進展に下宿を変更せざるを得なかったのだ、とも言われた。人々はミス・ジョウリフとその姪が日曜日に聖堂にあらわれるのを見て、何という鉄面皮だと思った。少なくとも若いほうには「多少は」羞恥心が残っているに違いない、「人前で」恋人がくれた綺麗なドレスを着たり、宝石を身につけようとはしないから、と彼らは言った。
そうした噂はウエストレイの耳にも入り、男という存在を充実させる、わずかばかりの騎士道精神を刺激した。肘鉄を食らって彼の心はいまだにうずいていたが、そのような醜聞を聞き流しにするのは屈辱ものだと感じ、熱心に反論を加えたのだが、そのあまり人々は肩をそびやかして、「あいつ」とアナスタシアとのあいだにも何かがあったのだとこっそり囁いた。
教会事務員ジャナウエイはこの件に関しては嫌になるほどご都合主義的でそっけない態度を取った。彼は非難もしなければ弁護もしない。彼の考えでは、貴族が神から賜った権利は誰も侵すことができないのだった。たっぷり金を持っていて、けちけちせずに使っているかぎり、われわれはとやかく言うべきではない。彼らは平民とは違う基準で裁かれるべきだ。老いぼれの握り屋に取って代わって聖堂に関心を持つ人間が卿となり、聖堂やみんなのために金を使ってくれるのだから、ありがたいことだと彼は思っていた。べっぴんさんに惚れたからって、何が悪い。そんなこたあ、あの人たちにすりゃ、取るに足らぬこと、放っておくのがいちばんだ。教区委員が歎き、信心深げに悲しむと、彼はさっさとそれを中断するようにフォーディングの栄光について「蘊蓄」を傾け、あそこがもう一度きちんと管理されることはまわりの住人にとってもよいことなのだと言った。
「教会事務員のジャナウエイさん、あんたの意見には感心しないな」とある時、そんな会話の最中に肉屋が寺男に言った。彼は寺男を対等の相手と認めてやり、噂話にふけることがあった。「わたしはフォーディングをこの目で見たことがあるよ。カリスベリ博物学同好会と一緒に馬車で行ったんだが、ああいう屋敷は用心しないときっと誘惑の源になると思った。あんなお屋敷に独りで住むのは邪なことだよ。ネブカデネザル王のように『
「ありゃあ、あの方が建てたんじゃねえですよ」教会事務員は少々的外れなことを言った。「何世紀も前に建てられたんだが、あんまり古いんで誰が建てたのか、知っているやつはいません。ミスタ・ジョウリフ、あんたの両親は国教反対者だったから、若いときに公教要理は教わらなかったでしょうが、わたしは身分の上の人に従いますな。むこうが無理を言ってこないかぎり。人間は平等だなんてたわごとですぜ。そんなこたあ、教区の母の会に出りゃ分かるって、かみさんが言います。望みを持ちすぎるとろくなことがねえ。燻製にしんに塩かけて食うようなもんだ」
「いやいや」と相手は咎めた。「わたしは御前様じゃなくて、あの方をそそのかしている連中を非難しているんだ」
「あの娘さんのこともあんまり非難はできませんぜ。どっちの側にも悪いところがありますからな。御前様のおじい様はいつも品行方正ってわけじゃあなかったし、娘さんの家系にも褒めることのできねえ例があります。今まで不思議なものをさんざん見てきましたが、血は争えねえって思いますよ。非難するなら子供たちより先祖でさあ。親父が酒を飲むと、身体から酒が切れるまで、子供へ孫へと引き継がれます。お袋が淫蕩だと娘も男好きになり、あたいのりんごはいかが、なんて言い寄ったりしがちなものです。いや、とんでもねえ、全能の神様はわたしらを平等にお作りじゃねえんですよ。みんながみんな教区委員だとは思いなさるな。なかには徳のある立派な先祖を持ち、あんたみたいに背中に翼をはやして生まれた人もいるでしょうさ」——そう言って彼はふと聞き手のずっしりした身体つきを見た——「わたしらを穹窿天井まで持ち上げてくれるような翼をね。しかしなかには親父が靴底に鉛をしこんで、床から離れられないってのもおりまさあ」
土曜の午後はブランダマー卿がやってくる時間だったが、ミス・ジョウリフは家で見張りをするために三週つづけて土曜のドルカス会を休んだ。陰険なゴシップ屋ミス・シャープと嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントの道徳心は、恥さらしな老女が少なくとも彼女より優れた人々との交わりを避けるくらいに慎みを持っていることを知って喜んだ。しかし会を休むのはミス・ジョウリフにはつらい試練だった。休むたびにもう二度とこんな犠牲は払えないと思ったが、アナスタシアへの愛が彼女を引き留めた。姪には調子がよくないと見え透いた言い訳をしたが、記憶にないほどはるか昔から会合に捧げられてきた二時間を、熱に浮かされたように焦燥しながら過ごす様子を、姪のほうはいぶかしそうに、不安そうに眺めていた。毎週訪れる楽しみは若いときや中年のときはいつまでもつづくように思われるが、人生が夕暮れ時に近づくと以前ほどかぎりないものとは思えなくなる。三十歳は平気で土曜日の親族懇親会を欠席したり、日曜日をいい加減に過ごすが、七十歳はその繰り返しに終わりの来る日が見え、残る一回一回を名残惜しむように過ごすのである。
三週つづけて土曜日にミス・ジョウリフは見張りをし、三週つづけて土曜日に怪しい訪問者はあらわれなかった。
「このごろブランダマー卿はお見えにならないね」この話題に対して装えるかぎりの無関心を装い、彼女はよくそう言った。
「ミスタ・ウエストレイが出て行ってしまったもの。ここには何の用もないわ。どうして来なくちゃいけないの?」
まったく、どうして来なきゃならないの。それに二度と来ないからといってそれがわたしに何の関係があるの。これはアナスタシアがあの空白の三週間のあいだ、毎日、毎時間、心のなかで問いかけたことだった。そういうくだらない議論や虚しい想像にふける時間はたっぷりあった。同年代にも年上にも年下にも心を許した友達がおらず、彼女は一人きりだったのだ。彼女はその地位に不相応の教育と天分を持った不幸な人々の一人だった。若者らしい遊びにふける機会はなかったし、おしゃれや人付き合いの楽しみも味わったことがなかった。気晴らしはいつも空想にふけることで、たくましい想像力と手当たりしだいの読書の結果、彼女は小説という学舎で教育を受けることになった。こんな人間はカランには彼女の他に誰もいなかった。彼女は誇り高き人間だった(奇妙なことだが、隣人の見るところ何の取り柄もない人がしばしばもっとも誇り高い人間なのである)。しかししゃべり方が気取っているというミスタ・ジョウリフの批判にもかかわらず、態度にうぬぼれたところはなかった。友達ができなかったのは誇り高かったからではなく、単に気が合わなかったからなのである。他人と彼女をへだてる壁、それは教養と無知をわけへだてる壁というより、洗練されたものと世俗的なもの、奔放な想像力と平凡な日常性をわけへだてる壁だった。
この壁は乗り越えがたく、それを克服しようとするいかなる試みも失敗に終わらざるを得ない。もともと成功の望みがまったくないのだから、その試みが滑稽に見えることも往々にしてある。熱烈な愛もこれほど相容れない素材からは精神的な結びつきを生み出すことなどできたことがない。自然の思いやりある配慮のおかげで、裂け目の広さは、それを越えられぬ者には見えないようになっている。彼らはそこに裂け目があることは知っている。考え方の違いにうすうす気がついてはいる。しかし愛があればそこに橋を架けることができ、あるいはいつかは反対側に渡る道が見つかるはずだと考える。ときには目標にむかって一歩一歩、愛する者と前進しているような気がする。しかし残念だがそううまくはいかないのだ。精神的な理解、心と心を溶接する、あの啓示のような一瞬が欠けているのだ。
年上のミス・ジョウリフの場合がそうだった——彼女は姪と親密な仲になりたかったが、二人の距離はおそろしく離れていた。二人は手に手を取って進んでいると思っていたが、気性の違いが両者を南極と北極ほどにもわけへだてていた。彼女には賞賛に値する優れた性質が千はあったが、若い娘にとっては完全に異質な存在だったのだ。アナスタシアはまるでよその国にいるような、ことばの通じない人々と暮らしているような気がし、沈黙の中に逃げ場を求めた。
過去一年間、カランの退屈さ加減はますます彼女を押しひしいだ。もっと広い世界で生活すること、そして理解されることを彼女は求めていた。どれほど本人がそのような欲望に無自覚だったにしろ、彼女は彼女の年頃の、背が高くて器量のよい娘が求めて当然のものを求めていた。自分を讃え、愛してくれる人を求めていた。ロマンスを紡ぐことのできる相手を求めていた。
ローズ・アンド・ストーレイの共同経営者は彼女が必要としているものを察知したのか、それを補ってやろうとした。ドレスの垂れ具合がいいなどと、むかむかするようなお世辞を並べたものだから、ベルヴュー・ロッジが借金で手足もろともローズ・アンド・ストーレイに縛られているのでなければ二度と店には入らないところだった。この店は服地店であると同時に葬儀屋でもあり、ボンネットの小さな借金の他に、マーチンの葬儀費用もまだ支払いを済ませていなかった。中秋の赤い満月みたいな顔をした若い酪農家が市場に行く途中で叔母のところに立ち寄ったこともあった。ミス・ジョウリフに卵やバターを卸値で売り、アナスタシアを見かけるたびに、何ともうんざりするような笑顔を浮かべた。主任司祭の彼女に対する横柄さは我慢がならず、ミスタ・ヌートは親切だが、彼女を小さな子供のように扱う。ほっぺたを軽く撫でられ、十八歳の彼女が面食らうこともときどきあった。
そんなときにロマンスの王子がブランダマー卿となって登場した。黄色い葉が舞う風の強い秋の日の午後、玄関口ではじめて彼を見た瞬間、彼女は彼が王子であることを知ったのだ。話しかけてきたとき、彼も彼女を貴婦人と見抜いたことが分かった。それはことばにできないくらい嬉しくて感激的なことだった。そのときから賛嘆の念が育ちはじめ、恋い慕う人の禁欲さがいっそうその生育を早めた。彼はほとんどアナスタシアを見なかった。話しかけることもまれで、好奇のまなざしをむけることすらなかった。ましてウエストレイのように節度のない視線をむけたりはしない。それにもかかわらず賛嘆の念は大きくなった。彼は今まで見てきた男たちとは全然違う。今まで知り合った人々とはまったく違っている。どうしてそう思うのか説明はできなかったが、彼女にはそうだと分かっていた。どこへ行こうと彼についてまわる雰囲気——神が英雄を包む特殊な空気——きっとそれが彼女に彼は違うと教えたのだろう。
愛というすばらしいゲームに用いられる作戦は驚くほど数が限られていて、しかも終盤にはほとんど変化がない。個人的にゲームに参加していないかぎり、その動きは単調で、大昔のゲームとさっぱり代り映えがせず、とても興味の持てるものではないだろう。だからこのゲームは傍観者には退屈なのだ。彼らはわれわれの恍惚とした気持ちを冷たく突き放して見がちなもので、それがわれわれをぎくりとさせる。手のこんでいない単純なゲームは、しばらくするとゲームをやっている本人たちも飽き飽きしてきて、退屈を避けて詰め将棋をやってみたり、ナイトのややこしい動きを活用したりするものだが、それには以上のような理由があるのだ。
アナスタシアは恋に落ちたことを指摘されたら、にっこり微笑んだだろう。それは冬の陽射しのようなかすかな微笑みだったかも知れないが、それでも微笑みには違いない。彼女が恋をするなどあり得ないことだった。もはや王様が乞食娘と結婚する時代ではないことを知っていたし、厳しくしつけられて育ったから、結婚を前提とせずに恋に陥るなどとんでもなかった。ミス・オースチンのヒロインは結婚の申しこみをしそうもない人には魅力を感じることすらみずからに禁じている。だからアナスタシアは恋に陥るわけにはいかなかった。確かに恋はしていなかったけれど、ブランダマー卿が彼女の興味をひいたことは事実だ。実を言えばあまりにも興味をひかれ、四六時中彼のことを考えていたくらいなのである。おかしなことに何を考えるにつけても彼の姿が絶えず浮かんでくる。どうしてこんなことになるのだろうと、彼女は不思議だった。もしかしたらこれは彼の力なのかも知れない——並みいる下々のものを支配しているのは彼が漂わす力、その傲慢ともいえる働きのせいではないか。しかもそれはみずからを制するときにもっとも強力に働くのである。彼女は堅く引き締まった身体や、縮れた鉄灰色の巻き毛や、灰色の目や、目鼻立ちのくっきりした厳しい顔を好んで思い浮かべた。そう、彼女は彼の顔が好きだった。なぜなら厳しさがあるから。行きたいと思うところに行こうとする決意を秘めているから。
彼に対する関心がひととおりでなかったことは間違いない。というのは、彼女はごく普通の会話のなかでもその名を口にすることをはばかったからである。声がうわずるのを抑えられそうにないと感じたのだ。他の人が彼の話をするのを彼女はいやがったが、しかしこれほど彼女を虜にしている話題もなかった。他の人が彼のことを話していると、ときどき妙な嫉妬心が湧いてきた。自分以外の人間には彼のことは話すことすら許されていないという感情である。そして心のなかでいささか軽蔑的な笑みを浮かべる。なにしろ彼女より彼のことを知り、理解できる人間はいないのだ。カランの人の話題を決定する権利がアナスタシアになかったことはたぶん幸いだった。さもなければこの当時、人々は話すことなど何もなくなっていただろう。他人がブランダマー卿のことを議論するなどもってのほかだが、それ以外のことを議論するのも同じようにもってのほかだと彼女は思っていたのだから。
これは恋とは全然違う、ごく普通に興味をひかれているだけだ、と彼女は思った。誰だって——教育があって趣味の洗練された人なら誰だって——不思議な、強い個性に興味をひかれるものよ。彼のことならどんな細かいことにも興味を感じた。声には魅力があった。心を奪う低く澄んだ声は音楽的で、些細な発言すら重々しく響いた。「午後は雨になりましたね」とか「ミスタ・ウエストレイはご在宅ですか」と彼が言えば、そこにはミス・アナスタシア・ジョウリフ以外、どんなユダヤのカバラ学者も行間に読み取ることのできなかった深い謎がこめられているのだ。礼拝の最中でも思いは彼女と叔母が座るカラン大聖堂の家族席から遠く離れ、ふと気がつくと彼女の目はヴィニコウム修道院長の窓にかかる海緑色と銀色の雲形紋章を見ているのだった。洗礼者ヨハネの頭部に射す、澄んだ明るい黄色の輪光は、英雄がはじめてあらわれたあの日、レモン色に色褪せ、宙を舞っていたアカシアの木の葉を思い出させた。
しかし心は揺らいでも頭はしっかり理解していた。彼に興味を抱いていることは知られてはいけない。ふとしたことばや顔色の変化で心の内を見透かされてはならない。動揺のあまりともすると「おやすみなさい」という短い挨拶を返すことすらできなるということを彼に気取られてはならないのだ。
さて年上のミス・ジョウリフは三週連続して土曜日にベルヴュー・ロッジを監視し、三週連続して土曜日の午後、ドルカス会の時間が過ぎていくのをじりじりしながら見守った。しかし何も起こらなかった。天はいつもの場所にあり、大聖堂の塔はどっしりと立っている。教区委員はかつがれたのだ、自分の判断が正しかったのだ、ブランダマー卿がこの家に来たのはミスタ・ウエストレイに会うためで、ミスタ・ウエストレイが出て行った今、ブランダマー卿はもう来ることはないのだ、と思った。四回目の土曜日が巡ってきた。ミス・ジョウリフは姪がここ一ヶ月見たことのないくらい上機嫌だった。
「今日の午後はとっても気分がいいわ」と彼女は言った。「ドルカス会に出ても大丈夫だと思う。お部屋が息苦しくって最近行くのを止めていたんだけど、今日はそれほどひどいことにならないと思うの。着替えてボンネットをかぶっていくわ。わたしが出ているあいだ、留守番を頼むわね」そう言って彼女は出かけた。
アナスタシアは一階の窓辺の席に座った。窓は開いていた。春の日はしだいに長くなり、日暮れ時になると柔らかなかぐわしい空気が漂った。彼女は胴着を作ろうと思い、裁縫箱を開けて横に置き、まわりに型紙やら、裏当てやら、鋏やら、木綿の糸巻きやら、ボタンやら、「仕事」をするのに必要な道具を型通り広げた。しかし裁縫仕事はしていなかった。こうした準備をしたまさにその原因であり動機であった胴着そのものは膝の上に置かれ、彼女の手もそこに置かれていた。窓辺の席に半ば座るような、半ばよりかかるような格好で腰かけ、春のほのかな香りを吸いこみ、家々のあいだからのぞく透明な黄色い空が日没とともにますます赤みを帯び、山吹色に染まっていくのを見ながら、心は空想の中を遠くをさまよっていた。
そのとき一人の男が通りをこちらへやって来て、ベルヴュー・ロッジの正面階段を登りはじめた。しかし彼女にはその姿が見えなかった。田園が広がるほうから歩いてきたので、彼女の窓の前を通らなかったのだ。彼女の夢を最初に破ったのは玄関のベルの音だった。窓辺の席から降り立つと、叔母を中に入れようと急ぎ足になった。てっきりベルを鳴らしたのは、会合から帰ってきたミス・ジョウリフだと思いこんでいた。ドアを開けるのは手間がかかった。確かにベルヴュー・ロッジには泥棒を引きつけるようなものはなかったし、泥棒が来たとしてもきっと正面玄関から入ってくるようなことはなかっただろうが、それでもミス・ジョウリフは彼女が家を出たら、しっかりドアに鍵をかけなさいと言い張った。そうしておけば包囲攻撃されても持ちこたえられると言わんばかりだった。アナスタシアはいちばん上の差し錠を抜いて鎖をはずし鍵を開けた。下の差し錠を引き抜くのは少々やっかいで、彼女は大きな声で謝った。「待たせてごめんなさいね。この錠、とても固いのよ」しかしとうとう錠は外れた。重いドアを手前に開くと目の前にはブランダマー卿が立っていた。
第十八章
二人は一瞬、真正面から顔を突き合わせた。明るい夕空のなかに浮かび上がる彼らの姿を見た人は、きっと従兄妹同士か、あるいは兄妹とすら思ったことだろう。どちらも黒い服に黒い髪、背の高さもほとんど同じだった。男は決して背は低くないのだが、娘のほうがすこぶる上背があったのだ。
アナスタシアが束の間ことばを失ったのは驚きのせいだった。つい先日まで、ドアを開けてブランダマー卿を迎えるのはごく自然なことであったのに、ベルヴュー・ロッジに来なくなって一ヶ月経ったことが状況を一変させていた。彼の前に立ちながら、彼女は胸の内を告白させられてしまったような気がした。つまり、ここ何週間か、ずっと彼のことばかりを考えていたこと、どうして来ないのだろうといぶかっていたこと、来てくれることをこい願っていたこと、そして今、こうして戻ってきてくれてどれほど自分の心に悦びが満ち溢れているかということを。彼はこうしたことすべてを見て取っただろうが、彼女のほうも自覚したことがある。それは彼への思いが自分の心の大部分を占めているということだ。この知識の木の実を食べて彼女は頬を染めた。なにしろ魂が目の前に裸にされてさらけ出されたのだ。彼の目にも同じように裸の姿が見えているのだろうか。結婚など思いもよらぬ相手にここまで惹きつけられている自分を知り、彼女は衝撃を受けた。自分のように卑しい者が太陽を見つめ、目を眩まされてしまったなどと相手に知られたら、自分はもう生きてはいけないと思った。
ブランダマー卿が黙っていたのは驚いたからではない。彼にはドアを開けるのがアナスタシアだと分かっていた。むしろそれは困難な仕事を請け負い、いざそれに取りかかろうというとき、人がしばしば躊躇するといった、そんなたぐいの沈黙だった。彼女は目を伏せて下を見た。彼は相手の全身を、それこそ頭のてっぺんからつま先までを見渡し、自分が果たしに来た用事を最後までやり遂げる強い決意を確認した。彼女が先に口を開いた。
「申し訳ありません、叔母は外出してますわ」右手を開けたドアの
「いらっしゃらないのは残念です」と彼も彼女が聞き慣れた、低い、澄んだ、いつもの調子で喋った。「いらっしゃらないのは残念ですが、わたしが会いに来たのはあなたなのです」
彼女は何も言わなかった。胸の動悸が激しくて一言も発することができなかった。ドアの縁に手をかけたまま、身動き一つしなかった。手を離せば倒れそうな気がして怖かった。
「お話ししたいことがあるのです。入ってもよろしいですか」
彼女はためらったが、それは彼が予想していたことだった。そのあと中に入れてくれたが、それも彼が予想していた通りだった。彼は重い正面玄関のドアを閉めた。鍵をかけたり錠を差しこむよう注意することばは、どちらの口からも出なかった。泥棒がうろついていたらこの家は格好の標的だっただろう。
アナスタシアが先に立って歩いた。ミスタ・シャーノールの住んでいた部屋に行かなかったのは、作りかけの服が散らかっているということもあるが、以前二人がミスタ・ウエストレイの部屋で出会ったという、もっとロマンチックな理由もあった。二人は玄関ホールを抜け階段を登った。アナスタシアが先になり彼が後ろからついてきた。長い階段のおかげで一時的な余裕が生まれたのが彼女にとっては幸いだった。二人が部屋に入ると、また卿がドアを閉めた。火はなく窓は開いていたが、彼女は燃えさかる竈の中にいるように感じた。卿は彼女の取り乱した様子に気がついていたが、見て見ぬふりをし、自分のせいで緊張している彼女を気の毒に思った。今まで六ヶ月のあいだアナスタシアは自分の気持ちを上手に隠そうとしすぎて、かえって心の中を手に取るように読み取られていた。卿ははかりごとの進み具合を見て、誇りも成功の喜びも感じず、またあざけるように面白がったり、良心に呵責を覚えることもなかった。ただ、周囲の事情から身に帯びざるを得なかった役目を厭わしく思いながら、それでもみずから定めた道程を最後まで歩ききろうとする固い決意を持って事態の進展を見つめていた。彼は今、劇がどこまで進行したのかを正確に把握していた。そしてアナスタシアがどんな要求をも受け入れるだろうということも分かっていた。
彼らは再び差しむかいに立っていた。娘には何もかもが夢のように思えた。自分が目覚めているのか眠っているのかすら判然としない。心が肉体の中にあるのか、肉体の外に出てしまったのかも分からない。すべてが夢のようだったが、それは嬉しい夢だった。もう過去や未来のことを考えたり心配したり気にすることはないのだ。ひたすらこの瞬間にのめりこみさえすればいい。この一ヶ月のあいだ、自分の心を占領していた人と一緒なのだ。彼は戻ってきてくれた。また会うことがあるだろうかと考える必要はない。今自分と一緒にいるのだから。彼がそこにいるのはよい目的のためなのか、悪い目的のためなのか、と心配する必要はない。目の前に立つ男の意志に自分をすっかり委ねてしまったのだから。彼女は彼の指輪の奴隷であり、その指輪の他の奴隷たちと同じように、奴隷であることをうれしがり、主人の命令に嬉々として従うのだった。
卿は自分が相手に引き起こした感情、相手の胸にかきたてた思慕の念、そして相手の顔に書かれた自分への愛を不憫に思った。彼は彼女の手を取り、彼女は触れられることでこの上ない満足を感じた。その手は相手の手の中に生気なく収まっているのでもなければ、相手のなすがままになっているのでもなく、彼の指の軽い圧力にそっと反応しているのだった。彼女にとってこの状況は人生で最高の瞬間だった。もっとも彼にとってはフランドルのステンドグラスに描かれた婚約の絵のように情熱を欠いていたのだが。
「アナスタシア」と彼は言った。「わたしが話さなければならないことが何か、あなたには分かりますね。わたしがあなたにお願いしなければならないことが何か、分かりますね」
彼女は彼が語りかけるのを聞いた。その声は楽しい夢の中の、楽しい音楽のようだった。何か頼まれることは分かっていた。そして自分が何も拒まないこと、頼まれたものすべてを与えるつもりでいることも知っていた。
「わたしを愛していますね」と彼はつづけたが、結婚の申しこみとしては言い方が逆だった。しかも他の人に言われたら我慢がならないような、思い上がった前提だった。「わたしがあなたをこよなく愛していることも分かっていますね」あなたを愛していることはとっくに御承知でしたよね、という台詞は、彼女の洞察力に対する正当な賞賛だったが、しかし彼は心の中で、知識とは、ときになんといういい加減な根拠をもとに組み立てられるものかと苦笑いしていたのだった。「あなたを心から愛しています。ここに来たのはわたしの妻になってくださいとお願いするためです」
彼の言うことは聞こえたし、理解もした。しかし彼が今頼んだことはまったく予想もしていなかった。驚きでわけが分からなくなり、喜びで頭がぼうっとなった。話すことも動くこともできない。力が抜けて声も出ない様子を見て、卿は彼女を引き寄せた。その仕草には衝動に駆られた恋人の性急な激しさはなかった。そっと引き寄せたのは、そうするのがその場にふさわしいと思ったからだ。彼女はしばらく彼の腕の中で下をむいて顔を隠していた。そのあいだ卿は彼女を見ていた、というより、彼女の頭を見ていた。彼の目はふさふさした暗褐色の髪の上をさまよった。ミセス・フリントはその髪を見て、あれは自然にウエーブしているのではなく、父親のばかばかしい主張に信憑性を与えるために、ブランダマー家の者らしく見せかけているのだと言った。彼は暗褐色の髪がウエーブし、絹のようなつややかさに光るのをじっと見つめていたが、やがて放心したように目を上げ、むかいの壁にかけられている大きな花の絵に視線を合わせた。
絵はミスター・シャーノールが亡くなったとき、ウエストレイに遺贈されたのだが、まだ持ち出されてはいなかった。ブランダマー卿の視線はじっとこの絵に注がれ、腕の中の娘のことよりも、けばけばしい花とのたくる毛虫のほうに気を取られているようだった。彼の心は目下の緊急問題へと戻ってきた。
「結婚してくれるかい、アナスタシア——一緒になってくれるかい、アンスティス」家族の使う呼び名がいとおしい気持ちを少しだけ付加したようだった。彼は慎重にそのことばを使った。「アンスティス、妻になってくれるね」
彼女は何も言わなかったが、両腕を彼の首に巻き付け、はじめてほんの少し顔を上げた。どんな男をも満足させるであろう同意のしるしだったが、ブランダマー卿には当然のことにすぎなかった。結婚の申しこみが受け入れられることを彼は片時も疑わなかったのだ。彼女がキスを求めて顔を上げたのだとしたら、その期待は満たされた。もちろん彼はキスをした。が、まるで舞台の上で男優が女優にするように軽く額にキスをしただけだった。その場に誰かが居合わせたなら、彼の目を見て、その心が肉体を遠く離れ、今取りかかっている行為よりももっと大切らしい人か物のことをしきりに考えていることに気づいただろう。だがアナスタシアには何も見えなかった。ただ結婚を申しこまれ、彼の腕の中にいることしか分からなかった。
彼はしばらく待っていた。まるで今の姿勢がいつまでつづくのだろう、次は何をすればいいのだろうと迷っているかのようだった。しかし緊張を最初にといたのは娘のほうだった。目も眩むような最初の驚きから次第に落ち着き、思考能力が戻ってくると、喜びに影を投げかける一点の黒雲のような疑念がきざしてきたのである。彼女は腕の中から逃れようとしたが、そうした場合の常のように腕は彼女を引き留めた。
「いけない」と彼女は言った——「いけないわ。わたしたち、軽率すぎました。あなたのお望みはよく分かりました。そのことは決して忘れませんし、そんなふうにおっしゃってくれたあなたを死ぬまでお慕いいたします。でも無理。わたしにお尋ねになる前に、知っておいてもらわなければならないことがあるのです。それを何もかもご存じだったら、先ほどのようなお申し出はなさらなかったでしょう」
そのときはじめて彼は少しだけ真剣になり、少しだけ生身の人間らしくなり、少しだけ台詞をそらんじているような感じがなくなった。これは計算に入れてなかった筋書き、台本に載っていない挿話で、その瞬間、彼は返事に窮してしまったのだ。もっとも劇の本筋になんら影響しないことは分かっていた。彼はかき口説き、もう一度手を取ろうとした。
「教えてください、何を気にしているんですか」と彼は言った。「今わたしが言ったことを、今わたしたちがしたことを、取り消すようなことなど、この天の下に何もあるはずがありません。あなたがわたしを愛しているという事実をわたしから奪うことなど誰にもできません。いったい何が気になるのです?」
「申し上げられません」と彼女は答えた。「申し上げられないようなことなのです。お尋ねにならないでください。お手紙にして書きますから。さあ、帰ってください——どうか帰ってください。ここにいらっしゃったことを誰にも知られてはいけません。わたしたちのあいだに起きたことを人に知られてはなりません」
ドルカス会から帰ってきたミス・ジョウリフは少々がっかりした様子で、しかも機嫌が悪かった。いつものように何事もなく活動を終えたというわけではなかったのだ。三週つづけて休んだというのに誰も彼女の健康を気遣ってくれなかった。軽いお世辞を言ったり、陽気に世間話をしても実に素っ気なく「うん」とか「いいや」がかえってくるだけ。のけ者にされているような不愉快な気分だった。高潔な道徳家ミセス・フリントは明らかな意図を持って椅子をずらし、この気の毒な老婦人から遠ざかった。ミス・ジョウリフはとうとうみんなから見放され、相手になってくれたのはミセス・パーリンという大工のおかみさんだけだった。この人はあきれるほど太っていて頭が鈍く、何も分からずただにこにこしていることしかできない人である。ミス・ジョウリフは傷ついたあまり、ついうっかり寸法を間違え、冷えを防ぐ当て布と樟脳を入れるポケットがついた傑作ともいうべきネルのペチコートをまるまる駄目にしてしまった。
しかしベルヴュー・ロッジに戻ると嫌な思いは消え、ひたすら姪のことを心配するのだった。
アンスティスの様子がおかしかった。アンスティスはひどく具合が悪そうで、顔を真赤にし、頭痛がするとこぼした。ミス・ジョウリフは三週つづけて土曜日に具合の悪いふりをし、外出しない言い訳としたけれど、この四週目の土曜日、アナスタシアは仮病を使う必要は少しもなかった。実は先ほどの出来事に呆然となって、自分のことしか考えることができず、叔母の質問にも支離滅裂な答しか返せない有様だったのだ。ミス・ジョウリフは玄関のベルを鳴らしたが応答がなく、ドアが開けっ放しであることに気がついた。そしてついにはアナスタシアが窓を開け放ったままミスタ・ウエストレイの部屋にぽつねんと座っているのを見つけたのだった。寒気がするというのでミス・ジョウリフはさっそく彼女をベッドに寝かせた。
ベッドは応急処置の授業もその価値を否定しない救急療法である。しかも極めて安価という点で貧しい者のための治療手段といえる。もちろん貧しいといってもベッドを買うくらいの金がなければならないが。アナスタシアがミス・ブルティールか、せめてミセス・パーキンや嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントであれば、ドクタ・エニファーがすぐに呼びにやられていただろう。しかし彼女はただのアナスタシアでしかなかったし、目の前には借金が幻のように浮かんできたから、とにかく医者を呼ぶ前に一晩寝て様子を見ようと叔母を何とかなだめすかした。そのあいだ、医者のなかでもかぎりなく治療に巧みで、かぎりなく安全なドクタ・ベッドが招じ入れられ、おまけに名医で名高い開業医ドクタ・ウエイト(註 ウエイトは「待つ」の意)が治療に参加してくれたのだった。暖かいネルの寝巻き、湯たんぽ、熱いミルク酒、寝室の暖炉の火といった療法が試みられ、九時にミス・ジョウリフが姪にキスをして就寝する頃には、突如原因不明の病に倒れたものの、患者は急速に回復するであろうと少しも案じられることはなかった。