「止めたまえ」主教はもう一度言い、オルガン奏者の腕に手を置いた。「飲むんじゃない。触れちゃいかん。人生は成功なんて尺度じゃ測れない。『出世』の話なんかよしてくれ。人間はどれだけ出世したかで判断されるものじゃない。さあ、行こう。昔のような決断力、意志の力を見せてくれ」
「そんな力は持っちゃおらん」ミスタ・シャーノールは言った。「どうにもならんのだよ」しかし彼の手は棚の扉から離れた。
「じゃあ、わたしに手伝わせてくれ」と主教は言った。彼は棚を開け、半分空になったウイスキー瓶を見つけると、コルクをしっかり押しこみ、コートの垂れひだ中に差し入れ脇の下に抱えた。「行こう」
こうしてカリスベリ主教は左の脇の下にウイスキー瓶を抱えながらカランの本通りを歩いたのである。しかしコートの下に隠れていたので誰にもそれを見られることはなかった。人々はただ彼が右腕をミスタ・シャーノールの腕にからませているのを見たばかりである。ある人はこれをキリスト教的な謙虚のあらわれと考え、ある人は昔のほうが良かったと言った。彼らは主教がみずからの地位を貶めていると言い、いかにも下等な連中と人目もはばからず付き合うなど、教会の権威も地に落ちたものだ、と嘆じた。
「もっと会う機会を増やさないとならないね」主教は店々の前のアーケードを歩きながら言った。「きみはどうにかして今の泥沼から抜け出さないといけないよ。いっぺんには無理だろうが、しかしきっかけを作らなければ。わたしはきみを惑わす悪魔をコートの下に隠してしまった。きみはこの瞬間から努力を始めるんだ。今、約束してくれ。六日後、もう一度カランに来ることになっている。きみに会いに来るよ。その六日間のあいだ、一滴も口にしないと約束してくれ。そしてわたしが帰るとき、きみもカリスベリに来るんだ。約束してくれないか、ニック。時間が迫っている。お別れしなければならないが、でもそのことをまず約束してくれ」
オルガン奏者はしばらくためらっていたが、主教は彼の腕をつかんだ。
「約束してくれ。約束するまでは行かないよ」
「分かった。約束する」
そこを通りかかった嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントがあとになってこんなことを言った。主教はどうすれば一番うまく典礼尊重主義を大聖堂に導入できるか、ミスタ・シャーノールと議論しているのが聞えたわ、そしてオルガン奏者は、礼拝の音楽に関するかぎり最善の努力をすると約束したの。
堅礼式はつつがなく終了した。もっともグラマー・スクールの生徒二人が作法を外れたやたらと明るい青ねずみ色の手袋をはめてきて、みんなの前で先生から当然のお叱りを受け、それを見ていた末娘のミス・ブルティールがげらげらと笑いの発作を起こし、母親に聖堂から連れ出されて、魂の特典を授かるのは翌年ということになってしまったけれども。
ミスタ・シャーノールは執行猶予の期間を雄々しく耐えた。三日経っても彼は誓いを破らなかった——一口も、一滴も酒を飲まなかったのだ。そのあいだは好天に恵まれ、青い空と心浮き立つ空気が支配する、輝くような秋晴れがつづいた。それはミスタ・シャーノールにとって明るい希望の日々だった。彼自身心が浮き立ち、血管の中を新しい生命が駆けめぐるのを感じた。主教のことばは彼に元気を与え、そのことに彼は心から感謝した。酒を止めたからといって不都合があるわけではない。節制のおかげで、かえって調子がいいくらいだ。憂鬱になることなどまったくなかった。それどころか、ここ何年もなかったくらい朗らかな気分になった。あの会話で目から鱗が落ちたのだ。真に自分がなすべきことをもう一度自覚し、人生の真実が見えてきた。どれだけ時間を無駄にしてきたことだろう。どうしてあんなにへそ曲がりだったのだろう。どうして不機嫌をかこってばかりいたのだろう。どうして人生をあのようなねじけた目で見ていたのだろう。これからは嫉妬を捨て、敵対するのをやめるのだ。心を広く持ち——そうだ、心をうんと広く持つのだ。人類すべてを受け入れよう——うむ、参事会員パーキンさえも。一番大事なのは、自分がもう老人であることを認めること。もっと沈着に考え、子供じみた真似をやめ、アナスタシアへの馬鹿げた恋心を断固絶たなければならない。笑止千万ではないか——気むずかしい六十代の爺さんが若い娘に恋をするなんて!これから彼女はわたしにとって何者でもない——完全に赤の他人だ。いや、それはおかしいな。一切の友情を絶ってしまうなんて彼女に対して不公平だ。彼女には父親のような愛情を感じることはできるだろう——それは家族に対するような愛情であって、それ以上のものではない。愚かな過ちすべてに別れを告げよう。しかし、わたしの人生がその分だけ空虚になるのでは困る。空いた分はいろいろな趣味で埋め合わすのだ——ありとあらゆる趣味で。音楽はその第一のものとならなければならない。長年想を練ってきたあのオラトリオ「アブサロム」にもう一度取り組んで完成させてみよう。いくつかの曲はもうでき上がっている。バスのソロが歌う「アブサロムよ、わが子、わが子」と、それにつづく二重合唱「そなえよ、力強きもの、立ちて剣を抜け!」を書き上げるのだ。
こんなふうに彼は楽しげに自分の心と対話し、みずからの内部に生まれた大きな突然の変化に計り知れない高揚を覚えた。しかし彼は、雨を降らせた雲はまた戻って来ること、人間が習慣を変えるのは豹が斑紋の色を変えるのと同じくらい困難であることを忘れていたのだ。五十五歳、四十五歳、あるいは三十五歳で習慣を変えたり、川に坂を登らせたり、原因と結果の仮借なき順序をひっくり返したり——そんなことがいったいどれだけ可能だろう。ネーモ・レペンテ、すなわち人が突然善人になったことはない。一瞬の精神的苦痛が本能を鈍らせ、われわれに巣くう悪を麻痺させることがあるかも知れない——ほんのしばらく、ちょうどクロロフォルムが肉体の感覚を鈍麻させるように。しかし突然の心変わりがいつまでもつづくことはないのだ。生きているときも死んでからも、同じように突然の悔悛などあり得ないのである。
のどかな三日間が過ぎたあと、あの暗くどんよりした朝がやってきた。虚しい人生がいっそう虚しく感じられ、沈んだ自然の状態があまりにも的確に人間の神経に反映される朝である。健康な若者は天候などに少しも影響を受けることはない。頑健な中年は、たとえそれを感じたとしても「そのうち過ぎ去るさ、何もかも」と、しっかりした足取りで着実にわが道を歩みつづけるだろう。しかし身体の弱い、衰えゆく者には、いらだたしさと落胆がずしりとのしかかる。ミスタ・シャーノールの場合がまさにそうだった。
昼食の頃には、ひどくそわそわした気分になっていた。海から真黒な濃い霧が巨大なかたまりとなってカラン・フラットに押し寄せ、ついにその先端が街の外縁をとらえた。そのあとは通りに居座り、とりわけベルヴュー・ロッジをその本陣と定めた。おかげでミス・ユーフィミアは咳が止まらず、イペカック薬用ドロップを二錠も飲み、ミスタ・シャーノールは呼び鈴を鳴らしてランプを持ってきてもらわなければ食事が見えないという有様だった。ウエストレイの部屋まで上がっていって、夕食を上で食べても構わないかと尋ねようとしたが、建築家はロンドンに行っており、晩の汽車まで帰らないということだった。彼は一人で何とかしなければならなかった。
食が進まず、食べ終わる頃には憂鬱が彼を圧倒し、ふと気がつくとなじみ深い棚の前に立っているのだった。三日間の禁酒が身体にこたえ、いつもの慰めへと彼を駆り立てたのかも知れない。棚のほうへむかったのは本能だった。戸棚を手で開けるまで自分が何をしているのか意識すらしなかった。しかしその時ふと断酒の決意が心によみがえった。棚の中が空っぽであることを思い出したせいもあるだろう(ウイスキーは主教に取り上げられていた)。彼はぴしゃりと戸を閉めた。もう約束を忘れてしまっただなんて——これまでの希望に満ちた日々、清明な中休みのあと、またもやあやうく泥沼に落ちこむところだった。彼は机にむかい、バージェス・ベルが午後の礼拝を予告するまでマーチン・ジョウリフの書類に没頭した。
薄暗闇と霧はしだいに小糠雨に変わり、小糠雨は午後が進むにつれ間断ない土砂降りに変わった。雨脚があまりに強いものだから、何百万もの雨粒が長い鉛葺きの屋根の上で不明瞭に呟やき、ランタンや北袖廊の窓に当たって騒々しく飛び散る音がミスタ・シャーノールの耳にも聞えるくらいだった。張り出しから下りてきた彼は不機嫌だった。少年たちの歌は眠そうで気が抜けていたし、ジェイクイーズはそのつぶれたしわがれ声でテナーソロを殺してしまった。ジャナウエイは、ミスタ・シャーノールが腹を立てて側廊を通り抜けるとき、さよならも言わなかったことをあとになって思い出した。
ベルヴュー・ロッジに戻っても事態は変わらなかった。雨に濡れて寒気がしたが、暖炉に火はなかった。そんな贅沢をするにはまだ時期的に早かったのである。台所へ行ってお茶でも飲もうか。土曜の午後だ。ミス・ジョウリフはドルカス会に出席しているだろうが、アナスタシアは家にいるはずだ。暗くどんよりしたひとときに一条の陽の光が射し込むように、その考えが頭に浮かんだ。アナスタシアは家にいるだろう、一人で。暖炉のそばに腰かけて熱いお茶を飲もう。そのあいだアナスタシアが話しかけてきて楽しませてくれるはずだ。台所のドアを軽くノックした。開けると、湿った空気がどっとばかりに顔を打った。部屋には誰もいなかった。半開きの窓から雨が吹きこみ、窓辺の樅のテーブルの上を黒く濡らしていた。火はくすぶっている灰にすぎない。考えこみながら無意識に窓を閉めた。アナスタシアはどこに行ったのだ?台所を出てから相当時間が経っているにちがいない。さもなければあんなに火が落ちていることはないだろうし、雨が吹きこむのも見たはずだ。きっと上の階にいるのだろう。ウエストレイの留守を利用して部屋を片付けているのだ。上に行ってみよう。もしかしたらウエストレイの部屋には火が入っているかも知れない。
彼は神の手を底からてっぺんまで広い井戸のように貫く石の螺旋階段を登った。石の踏み段、玄関ホールの石床、化粧漆喰の壁、一番高いところに天窓がある漆喰造りの折り上げ天井。これらが寒々とした階段をささやきの回廊に変え、ミスタ・シャーノールは半分も登らないうちに複数の声を聞いた。
それらは会話をしている声だった。アナスタシアに話し相手がいる。次の瞬間、一つの声は男の声だと分った。何の権利があってウエストレイの部屋にあがりこんでいるんだ?厚かましくもアナスタシアと話しをしているのはどこのどいつだ?突拍子もない疑惑が心をよぎった——まさか、そんなことはあるまい。わたしは盗み聞きをしたり、こっそり近寄って聞き耳を立てたりはしないぞ。しかしそう思いながらも一段か二段さらに階段を登った。声がいっそうはっきりと聞こえた。アナスタシアが話し終え、男がまたしゃべり出した。そうでなければいいという期待と、そうではないかという恐れが、一瞬均衡して、ミスタ・シャーノールの心を宙づり状態にした。そして疑惑は消えた。彼はその声がブランダマー卿の声であることを知ったのだ。
オルガン奏者は階段を二段か三段、素早く駆け上がった。すぐ彼らの所へ行こう——すぐウエストレイの部屋の中へ。それから——そこで彼は立ち止まった。それから、どうするのだ?だいたい何の権利があって中に入るのだ?彼らが何をしようと自分とは関係がないではないか。誰かが口出しする筋合いのものではない。彼は立ち止り、むきを変えて、また下に降りていった。なんて馬鹿なのだろうと自分に言いながら——モグラ塚を山と勘違いして騒ぎ立てるようなものだ。しかも実際はモグラ塚すら存在しないというのに。だが彼はそう思うあいだもずっと生身の心臓をつかまれ押しつぶされるような、むかむかした気持ちに襲われていたのである。戻ると自分の部屋は今まで以上に陰気に思えた。しかし今となってはそんなことはどうでもいい。ここにいる気はないのだから。ほんのしばらく足を止めたのは、ただ事務机の垂れ板の上に乱雑に積まれたマーチン・ジョウリフの書類をごそっと引き出しに放りこむためだった。書類を入れて鍵をかけるとき、ぞっとするような笑みが顔に浮かんだ。「報いを受ける日の必ずや来たらん」。この書類がすべての不当な仕打ちに対する復讐を果してくれるはずだ。
重く濡れそぼった外套を玄関の掛け釘からはずした。これなら悪天候でも台なしになることはないな、なにしろとっくにすり切れて緑色になっているし、次の四半期の給料が出たらさっそく買い換えなければならないような代物なのだから。そう考えて彼は心の中でにやりとした。雨はまだ土砂降りだったが、出て行かずにはいられなかった。四つの壁は彼のいらだちを納めておくには狭すぎたし、外の自然の悲しさは彼の憂鬱な気分にぴったり合った。通りに面したドアをそっと閉め、神の手正面の半円形の階段を降りた。アナスタシアがはじめてブランダマー卿を見た、あの歴史的な夕方に、卿が降りていったのとまったく同じように。そのとき卿が振り返ったように、彼も家のほうを振り返ったが、光り輝く前者と違って彼には運がなかった。ウエストレイの部屋の窓は固く閉ざされ、誰の姿も見えなかったからだ。
「こんな家、二度と見たくないわい」彼は半ば真剣に、半ば冷笑的な気持ちでそう思った。もっとも人がそんな冷笑的なことばを吐くのは、よもや運命の女神がそれを字義通りに受け取りはしまいと思うからなのだが。
一時間以上、当てもなくうろつき、夜になって気がつくと町の西の外れに来ていた。そこの小さな革なめし工場は、形だけはカランで商業活動が行われていることを示す最後のものだった。カル川は何マイルも柳と
彼が見たのは侘びしい気の滅入るような川の流れだった。背の低い木造の革工場は一部が水面に突き出していて、鉄の支柱に支えられていた。そこに水にさらされ白くなった皮と、胸の悪くなるような内臓がしがみつき、水の流れに従って右に左にゆっくりと揺れていた。このあたりは水深が三フィート程度で、汚れた水の下には砂底が見え、水草のかたまりがあちこちに生えていた。排水に汚れた濃緑色のこのかたまりは、暮れていく光の中でほとんど真黒にしか見えず、ミスタ・シャーノールには水死体の髪の束のように思われた。水の流れに揺らめき、とうとう流されていってしまうのを見ながら、彼は一人それらにまつわる物語を心の中で織り上げた。
彼はぼんやりと観察とつづけたが、心に大きな懸念があるとき、肉体はときどきそんな姿勢を取ったままじっとしているものだ。ごくつまらぬ小さなものまで目についた。彼は汚れた水の下の、汚れた川底に横たわるものを、一つ一つ数えていった。底に穴の開いたブリキのバケツ、注ぎ口のない茶色のティーポット、頑丈すぎて毀れない、陶器製の靴墨の瓶、他にもガラスの欠片や瀬戸物の破片があった。つばだけ残ったシルクハットがあり、つま先のない長靴が一足ならずあった。振り返って道の先にある町を見た。ランプが灯りはじめ、その光が泥道に付けられた幾筋もの交差する白い線を照らし出した。
彼はぎくりとして身震いした。雨が外套を通して染みこんでいた。腕が濡れているのを感じ、冷たく張り付くような湿気が膝を襲った。長いこと立っていたので身体がこわばり、背中を伸ばそうとするとリュウーマチの痛みにうっと身体の動きが止まった。急ぎ足をして身体を温めよう——すぐ家へ帰るんだ。家へ——しかし家なんかどこにあるというのか。あの大きな陰鬱な神の手。あの建物も、その壁の中にあるすべてのものも厭わしかった。あんなものは家ではない。しかし早足でむかったのはそちらの方向だった。他にどこにも行く場所がなかった。
みすぼらしい小路を通り、五分も経たぬうちに目的地に着くというとき、歌声が聞こえてきた。ウエストレイが到着した最初の晩に通った、同じ小さな酒場の前を通り過ぎようとしていた。ウエストレイが来た晩に歌っていたのと同じ声が中で歌っていた。ウエストレイが不愉快を連れてきやがった。ウエストレイがブランダマー卿を連れてきたのだ。あれから何もかも変わってしまった。ウエストレイなんか来なければよかったのに。わたしの望みは——ああ、わたしの心からの望みは——すべてが昔に戻ること——一世代前のようにすべてが静かに進んでいくことだ。確かにいい声をしている、あの女は。どんな人なのか、一目見る価値はあるだろう。部屋の中が覗ければいいのだが。いや、中を見る言い訳なら簡単だ。軽くお湯割りのウイスキーを注文しよう。こんなに濡れてしまったのだから一杯やったほうがいい。風邪を防ぐことができるだろう。もちろんほんのちょっとだけ、薬代わりに。それならちっとも差し支えはない——ただ健康のため用心をするだけなのだから。
帽子を脱いで雨を振り払い、音楽の演奏の邪魔にならないよう、音楽家らしい配慮を示しながらドアの取っ手をそっと回し中に入った。
彼は一度窓から見たことのある、床が砂でざらざらしている部屋にいた。奥行きがあって天井が低く、屋根には重い梁が渡されている。向こう端には暖炉があり、くすぶる火の上に薬罐がつるされていた。一方の隅にはフィドルを弾く老人が腰かけ、その旁らにあのクレオールの女が立って歌っていた。部屋の中にはテーブルが数台置かれ、後ろの長椅子には十人ほどの男が座っていた。若い者は一人もなく、ほとんどはとうに人生の盛りを過ぎている。顔は日焼けしてマホガニー色になっていた。ある者は耳飾りをし、白髪の揉み上げを奇妙な具合にカールさせていた。彼らはまるで何年もそこに座りつづけているかのようだった——まるで永遠に酒場に集う至福境を与えられた昔の沈没船の乗組員といった風情だった。誰もミスタ・シャーノールに注意を払わなかった。音楽が人を恍惚とさせる力を発揮し、彼らは心ここにあらずという状態だったのだ。ある者は昔のカランの捕鯨船や、銛や浮氷塊とともにあった。ある者は船首の四角い木材運搬用ブリッグや、バルト海とメーメル産の白い木材、荒れ狂う海上の夜と、それ以上に荒れ狂った上陸地の夜を夢見ていた。またある者はマンゴーの木立を通して見た菫色の空と月明かりを思い出し、クレオールの女を見ながら、その衰えた容色の中に一昔前、若い情熱に火を付けた甘い、浅黒い顔を呼び起こそうとした。
さあ、おまえたち、グロッグ酒だ——グロッグ酒を持ってこい
とクレオールは歌った。
ふち一杯に注ぐんだ
ネルソン提督の思い出が褪せないように
その栄光の星の光が衰えないように
どのテーブルにも大酒杯が並び、ときどき酒飲み仲間の一人が中に角砂糖を入れてマドラーで砕き、あるいは目の前で湯気を立てている茶色の大きなコップ酒をぐいとあおった。ミスタ・シャーノールに話しかける者はなく、ただ店の主人が注文も聞かずに、他の客が飲んでいるのと同じ熱い酒をコップに満たして前に置いた。
もしかしたらもっと不本意な顔をするべきだったのかも知れないが、オルガン奏者はあっさり運命を受け入れ、数分後には他の人と同じように酒を飲み、煙草を吸っていた。酒は好みに合っていたし、すぐに暖かい部屋とアルコールが効き目をあらわし元気が戻ってきた。外套を掛け釘にかけると、雨水がしたたり落ちるほどずぶ濡れで、しかも水が服の中まで浸みていたので、主人が空のグラスのかわりに、二杯目を持ってきたときは、ためらうことなく当然のようにそれを受け取った。大酒杯は次から次へと取り替えられ、クレオールの女は相変わらず合間合間に歌い、一同は煙草を吸い酒を飲みつづけた。
ミスタ・シャーノールも酒を飲んだが、部屋の中がさらに暑くなり、煙草の煙にくもり出すと、次第にものがはっきり見えなくなった。ふと気がつくとクレオールの女が目の前にいて、貝殻形の器を差し出し、投げ銭を求めていた。ポケットには硬貨が一枚——二週間分の小遣いになるはずの半クラウン硬貨が一枚しかなかった。しかし気が高ぶっていた彼は躊躇しなかった。
「ほら」まるで王国を与えるかのように彼は言った。「ほら、受け取りたまえ、あんたの歌にはこれくらいの値打ちがある。だが以前あんたが歌っていた歌を聴かせてくれないか。うねる海がどうとかこうとかいうやつだが」
彼女はわかったと頷き、金集めが終わると盲目の男に金を渡し、伴奏を頼んだ。
何連もある長いバラッドで、次のようなリフレーンがついていた。
どうかわたしを連れてって 愛する人がいる場所へ
彼らをここに連れてきて それがだめというのなら
荒れた海のむこうまで
さまよう気力はとてもない
歌い終わると彼女は戻ってきて、ミスタ・シャーノールの隣に座った。
「何か飲み物をおごってくれない?」彼女は実に見事な英語でそう言った。「みんな飲んでいるんだもの。わたしが飲んでいけないことはないでしょう?」
彼は主人を手招きして彼女にコップを持ってくるように言った。彼女はオルガン奏者の健康を祝してそれを飲んだ。
「歌がうまいね」と彼は言った。「少し訓練したら本当にすばらしい歌い手になる。どうしてこんなところに来たのかね。もっといい仕事に就くべきだよ。わたしだったらこんな連中の前で歌ったりしないね」
彼女は怒って彼を見た。
「どうしてわたしがこんなところに来たかですって。あなたこそ、どうしてこんなところに来たの?そりゃあ、少し訓練を受けたら、もっとうまく歌えるでしょうよ。もしもあなたと同じ訓練を受けていたら、ミスタ・シャーノール」——彼女はあざけるように彼の名前を強調した——「こんなところで飲んだくれてなんかいないわ」
彼女は立ち上がって老いたフィドル弾きのほうへ戻っていった。しかし彼女のことばはオルガン奏者の酔いを醒まし、胸に鋭く突き刺さった。結局、良き決心はことごとく無駄に終わったのだ。彼は主教との約束を破ってしまった。主教は月曜日にまたやってきて、相変わらず悪習に染まった彼を——今まで以上に悪習に染まった彼を見いだすだろう。悪魔が戻ってきて飾られたる家(註 ルカ伝から)で大騒ぎをしているのだ。彼は勘定を払おうとして振り返ったが、半クラウン硬貨は既にクレオールに渡っていた。金のない彼は店の主人に言い訳をし、恥をかき、名前と住所を言わされた。相手はぶつぶつと苦情を言った。楽しい仲間とお酒を飲む紳士は、紳士らしく勘定の用意をなさっておくものです。ずいぶんお飲みになりましたから、これがお支払いいただけないとなると、わたしみたいな貧乏人にとってはえらいことなんですよ。お客さんのおっしゃることは嘘じゃないんでしょうが、オルガン弾きともあろう方がメリーマウスへ酒を飲みに来てポケットに一文もなしというのは変じゃありませんか。雨は止みましたからね、誠意のしるしとして外套をかたに置いていってください。後で取りに来たらいいですよ。そういうわけでミスタ・シャーノールは着衣の一部を置いて行かざるを得ず、長年つきあってきたおんぼろ外套と別れさせられたのだった。彼は開いたドアのところで振り返り、寂しそうに笑みを浮かべて、掛け釘にひっかかって水をしたたらせている外套を見た。競売に付されたとしても、はたして酒代になるほどの値がつくだろうか。
確かに雨は止んでいた。空はまだ曇っていたが、雲の背後に広がる明かりは月が出ていることを示していた。どこへ行こうか。どこにむかえばいいのだろう。神の手には戻れない。そこにはわたしを厭がる人間がいる——わたしも会いたくない人間が。ウエストレイは帰っていないだろうし、帰っていたらいたで、酒を飲んでいたことがばれてしまう。またもや酒におぼれたことを、みんなに知られるのは耐えられなかった。
そのとき、別の考えが頭に浮かんだ。聖堂に行こう。ウオーター・エンジンが風を送ってくれる。酔いがさめるまで演奏するんだ。いや待てよ、聖堂に——聖セパルカ大聖堂に一人で行くのか?あそこにいるのはわたし一人だろうか。一人になれるのならずっと安心だ。しかし他に誰かが、あるいは何かがいやしないだろうか。彼は小さく身震いしたが、酒は血管を駆けめぐっていた。酔っぱらいらしく威勢よく笑い、小道に沿って中央塔にむかった。塔は雲に隠れた月の、霧のようにしっとりした白い光の中に、黒々とした姿を浮かび上がらせていた。
第十四章
ウエストレイは夜の汽車でカランに帰ってきた。十時ころ、夕食を終えようとしているときにドアがノックされ、ミス・ユーフィミア・ジョウリフが入ってきた。
「お邪魔してごめんなさいね、旦那様」と彼女は言った。「ミスタ・シャーノールのことがちょっと気にかかって。お茶の時間にいらっしゃらなかったし、そのあとも戻ってないんですよ。もしかしたらどこにいるかご存じじゃないかと思って。こんなに遅くまで外出するなんて、何年もなかったことですから」
「あの人の居場所なんて見当もつきません」ウエストレイはやや突っ慳貪に言った。一日中働きずくめで疲れていたのだ。「夕ご飯を食べに外に出たんでしょう」
「ミスタ・シャーノールを誘う人なんていませんわ。夕食のために外に行ったとは思えないんです」
「まあ、そのうちあらわれるでしょう。戻ってきたらお休みになる前に知らせてください」彼はもう一杯お茶を注いだ。彼は淡泊な、婆さんじみた人間の一人で、お茶には他の飲み物にはない特別の効用があるとまで考えていた。なぜみんなお茶を飲まないのか理解できないと彼は言った。他の飲み物よりもずっと元気が回復するし——お茶を飲んだ後は仕事もはかどるのに。
彼は引っ張り鉄の断面図の計算をまたやりはじめた。サー・ジョージ・ファークワーは引っ張り鉄で塔の南側を補強することにとうとう同意したのだ。彼は時間の経つのを忘れたが、そのとき再びいらだたしいノックが聞こえ、女主人がまたあらわれた。
「もうすぐ十二時ですわ」と彼女は言った。「なのにミスタ・シャーノールは影も形も見えません。わたし、とても心配なんですよ!お邪魔して本当に申し訳ないんですけど、ミスタ・ウエストレイ、でも姪もわたしも心配でたまらないんです」
「わたしにどうしろと言うんです」ウエストレイは顔を上げて言った。「ブランダマー卿と外出したってことは考えられませんか。ブランダマー卿が彼をフォーデングに招待したってことは」
「ブランダマー卿は今日の午後こちらにいらっしゃいました」ミス・ジョウリフは答えた。「でもミスタ・シャーノールにはお会いになりませんでした。ミスタ・シャーノールがいなかったものですから」
「へえ、ブランダマー卿が来たんですか」ウエストレイが訊いた。「わたしに言付けでもありませんでしたか」
「あなたがいらっしゃるかとはお尋ねになりましたが、言付けはありませんでした。わたしたちと一緒にお茶をお飲みになったんです。ただの友達づきあいでいらっしゃったんじゃないかしら」
ミス・ジョウリフはちょっともったいぶって言った。「わたしとお茶を飲もうとしてお出でになったのだと思います。残念ながらわたしはドルカス会に出てたんですけど、わたしが戻ると一緒にお茶を飲んでくださいましたの」
「変ですね。卿はいつも土曜の午後に来るみたいですね」とウエストレイは言った。「土曜の午後は必ずドルカス会に行くんですか」
「ええ」とミス・ジョウリフは言った。「土曜日の午後は必ず会に出席します」
一分間ほど沈黙があった——ウエストレイもミス・ジョウリフも考えこんでいた。
「まあ、何にせよ」とウエストレイが言った。「わたしはもう少し仕事していますから、ミスタ・シャーノールが帰ってきたら中に入れてやりますよ。でもフォーディングで一泊するように招待されたような気がしますがね。ともかく安心して寝てください、ミス・ジョウリフ。いつもの就寝時間をとっくに過ぎているじゃないですか」
ミス・ユーフィミアは床に就き、ウエストレイは一人残された。数分後十五分置きに鳴る四つの鐘が鳴り、それから低音鐘が十二時を打ち、次に全部の鐘が夜も昼も三時間ごとに奏でる曲を鳴らしはじめた。聖セパルカ大聖堂の近隣に住む人々は鐘の音など聞きはしない。耳が慣れてしまい、十五分置き、一時間置きの鐘の音は、人々に意識されることなく鳴った。もしもよそ者が大聖堂の近くに泊まったなら、その騒音は最初の晩こそ彼らの眠りを破るが、その後は何も聞こえなくなる。ウエストレイも夜な夜な遅くまで仕事をしていたが、鐘が鳴ったかどうか分からなかった。鐘が聞こえるのは注意力が目覚めているようなときのみである。しかしこの夜は鐘が聞こえ、「エフライム山」の穏やかなメロディに聴き入っていた。
彼は立ち上がり、窓を開け、外を眺めた。嵐は去っていた。数時間後に満月となる月が蒼い天空に清らかに昇り、その下には白いまだら模様の雲が長々とたなびいていた。雲の縁が虹のような琥珀色に輝いていた。ウエストレイはびっしり並ぶ町の屋根や煙突を見渡した。市場から立ち昇る光は、目で確認することはできないけれども、ランプがまだ灯されていることを示していた。その後光は次第に弱くなり、ついには消えてしまった。真夜中を過ぎたので明かりが消されたのだろう。月の光はまだ濡れている屋根屋根の上で輝き、そのすべてを見下ろすように聖セパルカ大聖堂の中央塔が真黒いかたまりとなって聳えていた。
建築家は奇妙に身体が緊張するのを感じた。興奮しているのだが、その理由は分からなかった。床に就いてもこれでは眠れないだろう。シャーノールが帰ってこないのは確かにおかしい。シャーノールはフォーディングに行ったに違いない。はっきり聞いたわけではないが、フォーディングに招待されたというようなことをしゃべっていた。しかしそうだとしたら一泊するために用意をして行ったはずだ。だのに、何も持ち出していない。持ち出していればミス・ユーフィミアがそう言っただろう。待てよ、シャーノールの部屋に降りていって、荷物を持ち出した跡がないか、調べてみようか。ひょっとしたら不在の理由を説明する書き置きでも残されているかも知れない。彼は蝋燭に火をつけ、足もとで石の踏み段がこだまする巨大な井戸のような階段を下りた。てっぺんの天窓から一条の月明かりが射しこみ、屋根裏部屋から聞こえる物音はミス・ジョウリフがまだ寝ていないことを彼に告げた。オルガン奏者の部屋には、彼の不在を説明するようなものは何もなかった。蝋燭の光がピアノの側面に反射し、数週間前に友人と交わした会話や、ハンマーを持った男が後ろからつけてくるというミスタ・シャーノールの奇妙な妄想を思い出し、ウエストレイは思わず身震いした。もしや友人は病気になって今まで人事不省のままじっと寝ていたのではないかとふと不安を覚え、寝室をのぞきこんだが誰もいない——ベッドは乱れていなかった。そこで彼は上の自分の部屋に戻ったのだが、夜はしんしんと冷え、もう窓を開けていられなかった。閉める前に窓枠に手をついて、中央塔が町全体を威圧し、圧倒している様を眺めた。この岩のようなかたまりがぐらつくなど、まったくあり得ない話だ。このようなよろめく巨人を支えるには、自分が今その断面図を描いている引っ張り鉄など、あまりにも弱々しく不十分だ。彼はオルガンのある張り出しから見た南袖廊のアーチの上の亀裂を頭に浮かべ、その発見のために「シャーノール変ニ長調」を途中までしか聴かなかったことを思い出した。そうだ、ミスタ・シャーノールは聖堂にいるのかも知れない。練習に行って閉じこめられたのではないか。鍵が折れたかして、出られなくなったのだ。彼はどうしてもっと前に聖堂のことを考えなかったのだろうと思った。
さっそく聖堂に行くことにした。駐在建築家である彼はどこのドアでも開けることのできるマスターキーを持っていた。寝る前に行方不明のオルガン奏者を探してこよう。彼は人気のない通りを足早に進んだ。街灯のランプはみな消えていた。カランでは満月のときはガスを節約するのである。動いているものは何もなく、足音が歩道に響き、壁と壁のあいだをこだました。波止場のそばの近道を通り、数分後には旧保税倉庫までやってきた。
壁を支えるため波止場の方向に突き出した煉瓦造りの控え壁のあいだには黒いビロードのような影が落ちていた。オルガン奏者が神経を昂ぶらせ、暗い壁のへこみに誰かが潜んでいるとか、建物と人間の運命のあいだには何かしらつながりがあると妄想したりしたことを思い出し、一人微笑んだ。しかしその微笑みが無理に作られたものであることは自分にも分かっていた。孤独感や半ば廃墟と化した建物のわびしさやごぼごぼという川の囁きに終始押しつぶされそうな気分だった。彼は本能的に足を速めた。そこを通り抜けたときはほっとして、その晩二度目であったが、後ろを振り返った。すると光と闇の不思議な効果が最後の控え壁の暗がりに誰かが立っているような印象を生み出していた。長い緩やかなケープを風にはためかせている男の姿が錯覚とは思えないくらいはっきり見えるような気がした。
錬鉄製の門をくぐり、墓地までやって来たとき、彼ははじめて柔らかく低い単調な連続音が周囲の空気を満たしていることに気がついた。束の間足を止めて聞き耳を立てた。あれは何だ?どこから聞こえてくるのだろう。敷石の小道を北の扉口へ歩いていくと、音はいっそうはっきりと聞こえてきた。間違いない。聖堂の中から聞こえてくる。いったい何の音だろう。夜中のこんな時間に聖堂で何をしているのだろう。
北のポーチに着いたとき、音の正体が分かった。オルガンの低音——ペダル音の一つだ。オルガン奏者がひどく誇らしげに説明してくれた、あのペダル音に違いないと彼はほぼ確信した。この音はミスタ・シャーノールが無事であること——聖堂で練習していることを保証するものだった。何か突拍子もない気まぐれから、こんな遅くに演奏をしているだけなのだ。あのサーヴィス「シャーノール変ニ長調」を練習しているのだ。
くぐり戸を開けようと鍵を取り出したが、すでに開いていることに気づき驚いた。オルガン奏者は中に入ると鍵をかける癖があることを知っていたからだ。聖堂の中に入る。奇妙なことに音楽は聞こえなかった。誰も演奏していない。ただたった一つのペダル音が絶えがたいほど単調な音を轟かせ、ときどきウオーター・エンジンが空になったふいごに空気を満たそうと、思い出したように動いては、かすかなどすんという音を立てるだけだった。
「シャーノール!」彼は叫んだ——「シャーノール、何をしているんです。何時だと思っているんですか」
彼は一呼吸置いた。最初、誰かが返事をしたような気がした——聖歌隊席で人々が囁き交わすのを聞いたような気がした。しかしそれは自分の声のこだまでしかなかった。自分の声が柱から柱、アーチからアーチへと投げ渡され、弱ってゆき、ランタンで「シャーノール!シャーノール!」というむせび泣きに変わったにすぎない。
夜中の聖堂ははじめてだった。身廊の円柱が月の光を浴び、経帷子を着た巨人のように列をなして白く立っている様を凝視しながら、しばらくその神秘に圧倒されて立ちつくしていた。もう一度ミスタ・シャーノールの名を呼んだが、またしても返事はなかった。そこで彼は身廊を抜け、例の小さなドアにむかった。オルガンのある張り出しに通じる、階段のドアである。
このドアも開いていたので、ミスタ・シャーノールはきっと張り出しにいないだろうと思われた。いるなら必ず鍵がかかっているはずだからだ。ペダル音は自鳴しているだけなのだろう。さもなければ、たぶん本のようなものがその上に落ちてペダルを押さえつけているのだ。張り出しに行く必要はないだろう。行くのは止めよう。振動する低音は前回の時と同じように彼を不快にさせた。彼は自分に何でもないと言い聞かせようとしたが、しかし何かがおかしい、それもひどくおかしいという不安な気持ちがますます強くなった。夜は更け、あらゆる生きとし生けるものから隔絶され、幽霊のような月明かりが暗闇をいちだんと暗くしている——完全な静寂にペダル音の陰鬱な響きが組み合わされて、彼はほとんど恐慌状態に陥った。幽霊が蠢いているような、聖セパルカ大聖堂の僧侶たちが墓石の下から蘇ったような、ほかにも不吉な顔があらわれ、じっと悪の所行を待ち受けているような、そんな気がした。彼は怯えに取り憑かれる前に、それを押し殺した。何が出て来ようとかまうものか。張り出しに行こう。彼は身廊から上へ行く階段に飛びこんだ。
既に述べたように、これは中心の小柱のまわりをぐるぐると回りながら登る螺旋階段で、長くはないが明るい昼間でも相当暗かった。しかし夜になるとインクで塗りつぶしたような闇に包まれ、ウエストレイはかなりの時間手探りで進み、ようやく月明かりが見えるところまでたどり着いた。それからついに張り出しに足を踏み入れたのだが、オルガン椅子には誰も座っていなかった。真正面には南袖廊の端にある大きな窓が光っていた。夜ではなく、昼ではないかと思われた——そのくらい窓の光は彼が後にした暗闇に比べて強烈だった。ステンドグラスが半透明に輝く狭間飾りは、鈍い光を放っている——紫水晶、黄玉、玉髄、碧玉と、神の都の土台のような十以上もの宝石たち。そしてその真ん中、中央の窓仕切りの上部で、みずからの内に秘めた光で他の何よりも輝いていたのがブランダマー家の紋章、海緑色と銀色の雲形紋章だった。
ウエストレイが張り出しに一歩踏みこむと、足が何かにぶつかり転びそうになった。ぶつかったのは柔らかくたわむ何か、触れただけで恐ろしい予感に満たされてしまう何かだった。身体をかがめて確認しようとすると白いものが目に飛びこんできた。白い顔が穹窿天井を見上げていた。彼はミスタ・シャーノールの身体につまずいたのだった。床に倒れ、後頭部を足鍵盤に載せていた。ウエストレイはかがみこんでオルガン奏者の目をのぞいたが、それらはじっと動かず生気がなかった。
死体の顔を照らす月明かりは、中央の窓仕切りの上部、いちばん明るいところから射してくるようだった。床にじっと横たわる男からまさしくその命を奪ったものは、まるで雲形紋章であるかのように思われた。
第十五章
検死審問ではウエストレイと医者の証言以外に重要な証拠は提出されなかった。しかし実のところ、それ以外の証拠は必要なかったのだ。ドクタ・エニファーが死体を解剖し、直接の死因が頭部への打撲であることを突き止めた。しかし内臓は飲酒癖の痕跡を示し、心臓に疾患のあることは明らかだった。おそらくミスタ・シャーノールはオルガン椅子から立ち上がったとき失神し、後ろむきに倒れて足鍵盤に頭をぶつけたのではないか。きっと勢いよく倒れたせいで、鈍器で殴られたような重い傷がついたのだ。
検死審問がほぼ終わろうとするとき、まるで本能に促されたように、突然ウエストレイが質問を発した。
「つまり傷はハンマーのようなものによってつけられたのですね」
医者は驚いた様子をし、陪審員と数少ない傍聴人たちは目をむいたが、ウエストレイの質問にいちばん驚いていたのはウエストレイ本人だった。
「あなたに提訴権はないのですよ」と検死官が厳しく言った。「このような質問は通常許されていません。医師に返答を許可するのは特別の計らいと心得てください」
「そうですな」とドクタ・エニファーはもったいぶって言った。その口調には、愚かな人々が聴きたがるどうでもいい質問にいちいち答えるためにここにいるわけではない、という気持ちがこめられていた。「そうですな。ハンマー、あるいは他の鈍器で暴力的につけられたような傷です」
「重い杖ということもあり得ますか」ウエストレイが示唆した。
医者は威厳のある沈黙を守り、検死官は口をはさんだ。
「あなたは時間を無駄にしていると言わざるを得ませんね、ミスタ・ウエストレイ。もっともな疑問であれば決して無視したりしませんが、しかしこの事件に疑問の余地はないのです。この気の毒な男は勢いよく転倒し、木製の足鍵盤に頭をしたたか打ちつけて死んだ、それに間違いないんです」
「本当に間違いありませんか」ウエストレイは訊いた。「ドクタ・エニファーはあの傷が転んだだけでできたと確信を持ってお考えですか。わたしはドクタ・エニファーが確信しているのかどうかを知りたいだけです」
検死官は無用の手間ばかり取らせて申し訳ないという陳謝と、こんな質問は権威ある一言でけりをつけていただけるとありがたいといった期待をこめた目で医者を見た。
「ええ、確信を持っていますよ」と医者は返答した。「さよう」——彼はほんの一瞬躊躇した——「さよう、転倒によってあのような傷がつき得るという点は間違いありません」
「ただですね」とウエストレイ。「彼がその上に倒れた鍵盤はある程度へこみますよね。忘れちゃいけないのは、あれがへこむってことですよ、はじめてぶつかったときは」
「その通りです」と医者。「そのことも考慮しましたし、あれだけ重い傷がついたというのはちょっと驚きであるということも認めます。しかしもちろんあの傷はそういうふうにしてついたのです。なぜなら他に説明のしようがないから。まさか殺人をほのめかしているわけではないでしょうね。確かに事故でなければ殺人と言うことになりますが」
「いえいえ、わたしは何もほのめかしてなんかいません」
検死官は眉をつり上げた。彼は疲れていて、このような時間の無駄遣いを理解できなかった。しかしおかしなことに、医者は前よりも中断を大目に見るような態度に変わってきていた。
「傷跡の検査には慎重を期しました」と彼は言った。「そして熟考の末、木の鍵盤によって生じたに違いないと結論したのです。さらに健康状態が悪化していたために打撲の効果が増幅されただろうという点も忘れてはいけません。故人の思い出を汚したり、お友達だったあなたに、ミスタ・ウエストレイ、苦痛を与えるようなことは言いたくないのですが、しかし、検死の結果、慢性的なアルコール中毒の痕跡が見つかったのです。わたしたちはそれを考慮しなければなりません」
「この男は常習的な飲んだくれだった」と検死官は言った。彼はカリスベリに住んでいて、カランもそこの住人のことも知らなかったから、平気で露骨なしゃべり方をした。おまけに建築家の差し出口にいらいらしていた。「あなたが言うのは、この男が常習的な飲んだくれだったということでしょう」と彼は繰り返した。
「そんなこと、ありませんよ」ウエストレイはかっとなって言った。「限度を超えた飲み方をしなかった、とは言いませんが、決していつも飲んだくれていたわけじゃない」
「あなたの意見など聞いていません」と検死官は言い返した。「われわれは素人の憶測なんか聞きたくはない。どう思います、ミスタ・エニファー」
今度は外科医がむっとした。いつも使われるドクタという肩書きで呼ばれなかったからだが、法的にはその肩書きを使う権利がないことを知っていただけにかえって腹立ちも大きかった(註 英国では内科医はドクタと呼ばれるが、外科医はミスタ、ミズで呼ばれる)。現在かかっている患者、またこれからかかるかも知れない患者の前で「ミスタ」と呼ばれることは、彼の名誉を傷つけるものである。医者はさっそく反発するように言った。
「いいえ、誤解なさってますよ、検死官。わたしはわれわれの気の毒な友人が常習的な飲酒家だったと言ったわけではありません。実際、酒で乱れたところは見たことがありません」
「それではどういう意味だったのですか。死体にはアルコール中毒の痕跡があったと言いながら、飲酒家じゃなかったというのは」
「亡くなった晩のミスタ・シャーノールの状態について何か証言はないのですか」と陪審員の一人が尋ねた。公平な立場から肝心な問題点を指摘したと思って内心にんまりしながら。
「ええ、重要な証言があります」と検死官が言った。「チャールズ・ホワイトを呼べ」
赤ら顔の小男が目をしばたたかせながら進み出た。名前はチャールズ・ホワイトといい、酒場メリーマウスの主人だった。故人は問題の晩にわたしの店にやってきました。故人とは顔見知りじゃありませんでしたが、あとで誰か知りました。天気の悪い晩で、故人はずぶ濡れでした。それでお酒を召し上がったんです。かなり飲みましたよ。でも紳士としてのたしなみを忘れるほどじゃありませんでした。お帰りになるときは、酔っておいでじゃありませんでした。
「トップコートを忘れるくらい酔っていたんじゃないのかね」と検死官は訊いた。「彼が帰ったあと、このコートを見つけたんじゃないのかね」彼は主人をなくした哀れな外套を指さした。椅子の背に引っかけられたそれは、今までにもまして汚い緑色をし、ぼろぼろにいたんで見えた。
「ええ、確かに故人はコートを置いていきましたが、酔ってはいませんでした」
「皆さん、酔っぱらいの基準にもさまざまあるものですな」検死官は本物の裁判官の説得力に満ちた口調を一生懸命おもしろおかしく真似して言った。「どうやらメリーマウスの基準は他のところより進んでいるようだ。わたしは」——彼はあざけるようにウエストレイを見た——「わたしはこのような質問をつづける必要があるとは思いません。ここに酒飲みがいます。ミスタ・エニファーが言うように常習的な飲酒家ではないにしろ、完全に病的な状態に陥るほど酒を飲みつづけていた。この男が安酒場に一晩居座って深酒し、帰るころにはへべれけになり外套を忘れていってしまう。外は大雨が降っていたというのに外套を置いていったのです。彼は酔っぱらってオルガンのある張り出しに行き、椅子に座ろうとして足を滑らせ、激しく後頭部を木片にぶつけた。そして、数時間後、慎重にして疑う余地なき証人により」——ここで彼は軽くフンと鼻を鳴らした——「死体として発見される。この木片の上に頭を載せたままね。この点に注意してください——彼が発見されたとき、頭は致命傷を与えたまさにそのペダルの上にあったのです。皆さん、これ以上の証拠は何も必要ないでしょう。皆さんがなさるべきことは実に明白です」
確かにすべては実に明白だった。事故死という全員一致の評決がミスタ・シャーノールの哀しい人生に奥付を付し、彼の人生を荒廃させた、まさにその弱点が、とうとう彼に飲んだくれとしての死をもたらしたのだと裁定された。
ウエストレイは寂しげなおんぼろトップコートを腕に抱えて神の手に歩いて帰った。検死官はもっともらしいことを言って外套を彼に押しつけたのだ。どうやらきみは故人と親しかったようだから衣類の始末を引き受けてくれないか。建築家は気を取られていて、この発言に伴う嘲笑に憤る余裕はなかった。彼は悲しみと不吉な予感に胸をふさがれその場を去った。
こうした変死というものはカランでは殺人の次に酒場での話の種となる。一時代前に木材商のミスタ・レヴェリットがブランダマー・アームズの女給を撃ち殺して以来、カランを舞台にこれほど劇的な事件が起きたことはなかった。浮浪者たちは市場の角で歩道に唾を吐き捨てるとき、ありとあらゆる形でその事件をののしりことばの中に取り入れた。ローズ・アンド・ストーリー一般服地店の売り場監督ミスタ・スマイルズは、枝編み細工の高椅子に腰かけるご婦人方と、カウンター越しに上品な口調でその事件を噂した。
ドクタ・エニファーはひげをあたってもらっている最中に迂闊にもくだらない会話に巻きこまれ、顎を切ってしまった。ミスタ・ジョウリフはソーセージ一ポンドにつき無料で教訓的意見を一包み添え、かわいそうな友人をあまりにも突然に連れ去ってしまった飲酒の罪に白目をむいてみせた。大勢の人が棺桶の後ろからその最後の安らぎの場所までついていった。悲劇の翌日の日曜日の朝、聖堂はいつになく人であふれかえった。人々は参事会員パーキンが説教壇からこの事件について何ごとかを語るだろうと思ったのだ。さらにそれに付随して葬送行進曲の演奏という出し物もあったし、素人オルガン奏者がアンセムの途中で立ち往生する可能性もあった。
こういう不純な動機から教会へ行った者は当然ながら失望を味わわされた。参事会員パーキンは煽情主義におもねるつもりはないと言い、説教の中で事件のことには一切触れず、またこのようにまことに不愉快な状況のもとでは葬送行進曲などまともに演奏できないと考えた。新しいオルガン奏者によるサーヴィスの演奏は最後まで腹が立つほど退屈・凡庸で、会衆は権利をだまし取られた人々のようにがっかりして聖セパルカ大聖堂から出て来たのだった。
人の噂も七十五日で、ミスタ・シャーノールは中流階級の死者が沈んでいく大いなる忘却のかなたに消えていった。後任はすぐには任命されなかった。参事会員パーキンは音楽に造詣が深い、ミスタ・シャーノールの弟子、国民学校副校長を代替要員としてまわしてもらえるよう手配した。敬虔なエリザベス女王は主教の席が空になるとそのまま放っておいてその管区の歳入をせしめ、国王手元金を補充したが、それと同じように主任司祭はカラン大聖堂のオルガン奏者の地位を利用して私腹を肥やしたのである。おかげでこの役職にかかる卑しむべき報酬は大幅に削減され、一年経ったときには五ポンドが彼のポケットに入っていた。
しかしたとえ世間がどうあろうと、ウエストレイはミスタ・シャーノールを忘れなかった。建築家は社交好きな男だった。大学には共通の関心から生まれる絆と伝統があり、それほど強くはないにせよ、同じようなものが陸軍、海軍、パブリック・スクール、さまざまな職業にも存在する。それは所属する者同士を結びつけ、それぞれの刻印を押しつけるのだが、下宿者のあいだにもこの同業組合に入っていなければ理解できないような、ある種の秘儀と資格が存在する。
下宿生活はむさ苦しく、貧乏くさく、わびしいと言うかも知れないが、それを和らげ、埋め合わせるものがないわけではない。下宿生活はほとんどの場合、若者の生活である。ミスタ・シャーノールのような老齢の下宿人は比較的まれなのだ。それは素朴な必要と素朴な趣味の生活である。下宿することは芸術と違い、過度の趣味の洗練を好まないのだ。豊かな生活ではない。豊かな生活ができるようになったとたん、人はたいてい自分の家を持つものだからである。それは働きながら明るい未来を夢見る生活、人生の闘いに備え、財産の基礎を作る段階、あるいは極貧という名の落とし穴を掘り進む段階なのだ。そのような境遇はよき友情を生み、育む。下宿したことのある者は、誠意のこもった、私心のない友情を振り返ることができる。誰もが天を前に対等で、打ち解け、人間が作り出した身分の差を知らない——誰もが声をそろえて楽しく合唱しながら人生の第一段階を旅し、本街道が分岐して、成功と失敗の分かれ道が古い仲間を遠く引き離してしまう地点にはまだ達していないのだ。ああ、なんという同志愛であり、連帯感だろう。それは家計の窮迫によって堅固にされ、強欲な、怠慢な、あるいは専制的な女主人に耐える必要によって強められ、与える者の懐は痛まないが受ける者にとっては大きな価値のある親切と思いやりによって甘美な味わいをつけられている!一階の住人が軽い病気にかかったとき(下宿で重い病気が発生することはほとんどない)、二階の住人が夕方下に降りてきて看病をしないだろうか。二階の住人は長い一日の仕事に疲れているかも知れないし、つましい食事をすましてみると、外がすてきな晩であったり、地元の劇場で優れた一座の公演があるというビラに気を引かれるかも知れない。それでも彼は惜しみなく時間をさいて一階の住人のところへ降りて行き、椅子に腰かけ、その日起こったことを話したり、もしかしたらオレンジやいわしの缶詰を持っていったりもするのである。一方、終日部屋に閉じこもっていることにうんざりし、他にすることがないからと嫌になるほど本を読んでいた一階の住人は、二階の住人を見てどれほど喜ぶことだろう。そして彼とのおしゃべりが医者の薬よりどれほど元気の回復に役立つだろう!
そののち花の展示会の日に女性が二階の住人を訪ねてきたときは、一階の住人は外出して居間を同宿人にすっかり明け渡し、食事のあと客がくつろぎ気分転換できるよう気を配らないだろうか。女性の訪問というのは恐れに満ちた喜びである。若い男に日曜日を一緒に過ごしましょうと親切に言ってくれた女性が、その上さらに親切を発揮して、いつかは男が意を決して申しこむ招待を、ありとあらゆる感謝とともに受け入れるときだ。この恐れに満ちた喜びがもてなす側に気もそぞろな準備を強いることは、国葬が紋章院総裁に強いるそれを上回る。あらゆるものがあたうかぎり最高の装いをしなければならず、実にさまざまな細部に注意を払い、実にさまざまな不足を隠さなければならない。しかしそのすべては結果によって報われるのではないか。小さな部屋とはいえ、そこには多くのものを補ってあまりある繊細さがあり、マントルピースの上の写真や銀のトディ・スプーン、さらには緑のテーブルクロスの染みを無造作に隠す「ロゼッティ詩集」と「享楽主義者マリウス」に至るまで、すべてが洗練された趣味に息づいていると若い男には思われないだろうか。そこへ親切な女性が微笑を浮かべてやって来る。彼女は相手の些細な不安やこまごました準備のことはすっかりお見通しなのだが、しかし何も知らないふりをして、彼の部屋や、取るに足りない宝物、料理、怪しげなワインをすらをも褒めてやり、ちょっとした不都合を巧みに興味深い珍奇な出来事に変えてしまうのだ。持ち家のある人々よ、あなた方は立派な人々である。一人前の男であり、智慧は汝らとともに死ぬであろう(註 ヨブ記から)。しかし下宿に住む者をあまり哀れまないことだ。彼らの知らない重荷を担うあなたは、反対に哀れまれ、心を千々にかき乱されてしまうから。彼らはあなたにこう言うだろう。種を蒔くときは収穫の時に勝るのだ、そしてさすらいの年月は主人となって一家を営む年月に勝るのだと。哀れみすぎてはいけない。孤独が必ずしも孤独なものではないことを知りたまえ。
ウエストレイは社交的な性格で、同宿者がいなくなったことを寂しく思った。偏屈な小男で苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、それでもその性格の中に同情を引き出すなにがしかの力と、なにがしかの魅力を備えていたに違いない。とげとげしいことばと気むずかしさの下に隠れていたけれど、しかしそうしたものがそこにあったことは間違いない。というのはウエストレイは自分でもまさかと思うほど彼の死を痛切に受け止めたからである。この一年間、オルガン奏者と彼は一日に二三度顔を突き合わせた。二人は、共にその中で仕事をし、共にこよなく愛する大聖堂のことを語り合った。そして雲形紋章、ブランダマー家、ミス・ユーフィミアのことを噂した。彼らが取り上げなかった話題は一つだけ——ミス・アナスタシア・ジョウリフのことだ。もっとも頭の中では二人とも頻繁に彼女のことを考えていたのだけれど。
今さらそんなことをしても手遅れなのだが、それでもウエストレイは毎日、このことをミスタ・シャーノールに話そう、とか、あのことについてミスタ・シャーノールの意見を聞こうと思い、そのたびに
「上に行きましょう、あなた」ミス・ユーフィミアは十時十五分前の鐘が鳴るといつもそう言った。「夜が長くなると、とっても寂しい感じがするわね。窓にちゃんと掛け金がかかっているか確認するのよ」それから彼らは玄関ホールを急いで抜け、一緒に並んで階段を上がった。まるで一段たりとも二人の間に距離を置くまいとするかのように。ウエストレイでさえ夜遅くこの洞穴のような大きな家に帰ってくると同じ感覚に襲われた。彼は急いで暗い玄関ホールの棚の上に手を伸ばした。その大理石の天板には自分用のマッチ箱が置いてあるのだ。そして蝋燭を灯してから、ときどき本能的にミスタ・シャーノールの部屋のドアを見た。そうした折によくあったように、ドアから年老いた顔が突き出し、彼を迎えてくれるのではないかと半ば期待しながら。ミス・ジョウリフは新しい下宿人を探そうとはしなかった。「空き部屋あり」の看板が窓のところにかけられることはなかった。また、ミスタ・シャーノールが所有していた人的財産は彼が残したままに置かれてあった。ただし、一つだけ動かされたものがある——マーチン・ジョウリフの書類の束で、ウエストレイはこれを上の自分の部屋に運びこんでいたのだ。
死者のポケットから見つかった鍵を使って故人の事務机を開け、遺言か書き置きが残されていないか調べてみると、一つの引き出しの中にウエストレイ宛のメモが発見された。死の二週間前の日付があり、ごく短いものだった。
「わたしがどこかへ行って連絡が途絶えたり、もしものことがあった場合は、すぐマーチン・ジョウリフの書類を押さえろ。自分の部屋に持って行って鍵をかけ、なくさないようにするんだ。わたしが望んだことだと言えば、ミス・ジョウリフが渡してくれるだろう。火事とかで焼失しないようよく注意するんだ。じっくり読んで自分の結論を下すがいい。赤い小さな手帳にはわたしのメモが書いてある」
建築家はこのことばを繰り返し読んだ。それはミスタ・シャーノールが一度ならず話していた例の妄想の産物に違いなかった——すなわち、敵が彼のあとをつけてくるという、オルガン奏者の最後の日々を暗くしていたあの妄想である。しかし当然のことながら、事件のあとにこのような書き物に接すると不思議な感慨が湧いてくる。あの偶然はあまりにも奇怪、恐ろしいまでに奇怪だった。ハンマーを持った男がつけてくる——それがオルガン奏者の妄想だった。襲撃者が後ろから忍び寄り、こっそりと恐るべき一撃をあびせ彼を死に追いやる。そして現実に起きたことは——予期せぬ突然の死、勢いよく倒れたがための後頭部強打。これは単なる偶然だろうか。あるいは何か説明のつかない予感があったのだろうか。それともそれら以上の何かだったのか。恨みを抱く誰かに襲われる、というオルガン奏者の思いには、実は根拠があったのではないだろうか。本当はあの晩、寂しい聖堂の中で忌まわしい光景が繰り広げられたのではないだろうか。オルガン奏者は不意打ちを食らったか、静けさの中に何かが動く物音を聞きつけ、振り返り、殺人者と二人きりであることに気づいたのではないか。もしもそれが殺人者であったなら、犠牲者が覗きこんだ顔は誰のものだったのか。ウエストレイは考えながら身震いした。それは人間の顔ではなく、何か戦慄を催させる存在、暗きを歩む邪悪なものが目に見える形に具現化したもののように思われた。
そこまで考えて、建築家は蜘蛛の巣を振り払うように愚かしい考えを頭から振り払った。くるりとむきを変えながら、誰がそんなことをしようと考えるものかと思った。故人はマーチンの書類が持ち去られないよう、誰を警戒しろと言ったのだろう。あの不吉な爵位を自分のものだと主張する、自分の知らない誰かがいるのだろうか。それとも——。ウエストレイは幾度となく心に浮かんだその考えを、悪意に満ちた根拠のない疑惑だと、断固としてしりぞけた。
手がかりがあるとしたらあの書類の中に違いない。彼は与えられた指示を守り、書類を自室に持ちこんだ。ミス・ジョウリフにはメモを見せなかった。そんなことをすれば彼女の動揺を深めるだけだ。今でも強すぎるほどの衝撃を受けているというのに。彼はただミスタ・シャーノールの遺志で彼女の兄の書類を自分が一時的に預かるとのみ伝えた。彼女は書類に触らないよう懇願した。
「ミスタ・ウエストレイ」と彼女は言った。「あんなもの放っておいてください。関わり合いになるのは止めましょう。わたし、ミスタ・シャーノールにも手を付けて欲しくなかったんです、あんなものには。おかげでこんなことになってしまって。もしかしたら天罰なのかも知れませんわ」——彼女は声を潜めて「天罰」と言った。中世の人間のように天は報復的で怒りっぽいと信じこみ、インクスタンドをひっくり返すことから下宿人の死まで、何か不運があれば、そこにその