雲形紋章

 「お待たせして申し訳ありません」ウエストレイは部屋に入りながら言った。「約束の時間を勘違いしたのかと思いましたが、でもお手紙には確かに五時と書いてありますよ」彼はポケットから封を切った手紙を取り出して差し出した。

 「勘違いしたのはわたしのほうです」ブランダマー卿は自分の指示を読んで、笑みを浮かべながら認めた。「四時と言ったような気がしたんですがね。しかし手紙を一、二通書く暇ができて幸いでしたよ」

 「聖堂に行く途中で投函できますよ。ちょうど郵便列車に間に合うでしょう」

 「いや、明日にします。同封するものがあるのですが、今手元にないので」

 彼らはそろって聖堂にむかった。ブランダマー卿は通りを渡るとき後ろを振り返った。

 「とても風格のある建物ですね。ちょっと手を入れれば住み心地もよくなるんだろうけど。何かできることがあるか、代理人と話をしなければならないな。このままでは領主としての評判にかかわりますからね」

 「ええ、面白い特徴がたくさんありますよ」ウエストレイが答えた。「この建物の来歴はもちろんご存じでしょうね——つまり以前は宿屋だったということですが」

 彼は同伴者と一緒に家のほうを振り返ったが、一瞬何かがミスタ・シャーノールの部屋のブラインドの背後で動いたような気がした。しかしきっと目の錯覚に違いない。家にはアナスタシアしかいないし、彼女は台所にいる。彼は外に出るとき、お茶に遅れるかも知れないと大声で彼女に言ったのだった。

 ウエストレイは聖堂のなかを案内したり説明したりしながら、陽の光りが落ちるまで一時間半あまりの時間を心ゆくまで楽しんだ。ブランダマー卿は見るものすべてに、婉曲語法でよく言われるところの「知的関心」を示し、極めて豊かな建築学的知識を、隠すでもなく、ひけらかすでもなく、ごく普通に口にした。ウエストレイは質問こそしなかったものの、どこでそんなことを覚えたのだろうといぶかった。視察が終わるころには、彼は技術的な問題に関して、素人にむかってではなく、対等な専門家に語るようにしゃべっていた。彼らは中央塔の下でしばらく立ち止まった。

 「わたしがとりわけ感謝しているのは」とウエストレイが言った。「寛大にも全てをわたしたちの自由裁量に任せてくださったことです。これで塔に手をつけることができます。この上の部分が大丈夫とはとても思えません。アーチは建造当時のものとしては異常に幅広で、厚みがないんですよ。お笑いになるかも知れないけど、わたしはときどきアーチが直してくれって叫んでいるような気がするんです。特に南側のアーチ、上の方の壁にぎざぎざの割れ目ができているやつは。たまに聖堂や塔のなかにひとりでいると、アーチのことばが聞き取れるような気がします。『アーチは決して眠らない』って言っているんですよ。『われわれは決して眠らない』って」

 「ロマンチックですね」とブランダマー卿は言った。「建築はことばが石に変じたものだ、という昔の格言がありますね。きっとあなたは相当な詩人なんでしょう」

 彼はしゃべりながら禁酒家の痩せてやや青ざめた顔と高い頬骨を見た。ブランダマー卿は冗談を言わず、めったに笑うこともないと思われていたが、もしもその場にウエストレイ以外の人間がいたなら、卿のことばのいたずらっぽい調子と、目尻に浮かぶ面白がるような表情に気がついたかも知れない。しかし建築家は何も気づかず、少し赤くなりながらこう話しつづけた。

 「ああ、そうかもしれませんね。建築はたしかに人に霊感を与えますね。わたしがはじめて書いた詩、というか、少なくともはじめて活字になった詩はチュークスベリ修道院の後陣を謳ったものです。グロスター・ヘラルド紙に掲載されました。いつかこのアーチのことも何か書きたいですね」

 「是非そうしてください」とブランダマー卿は言った。「そしてわたしに一部送ってください。この場所には詩人が必要です。それにアーチのことを詩に書くほうがアーチ形の眉毛について詩を書くよりずっと無難ですものね」

 ウエストレイはまた赤くなって胸ポケットに手を入れた。うっかり書きかけの詩を机の上に置いたままにして、ブランダマー卿や他の誰かに見られたのだろうか。いや、大丈夫だ。彼は通常の手紙とは異なる、縦方向に折った紙の、鋭い角を指先に感じた。

 「よろしかったら時間もあるようですし、屋根の部分をご覧にいれましょうか」彼は話題を変えて言った。「袖廊の交差穹窿の頂点を見ていただいて、今取りかかっている作業の説明をしたいんです。あそこはいつ行っても薄暗いんですが、カンテラがあると思います」

 「もちろん喜んで」彼らは北東の基柱内部に造られた螺旋階段を登った。

 教会事務員のジャナウエイは視察する彼らから安全な距離を置いたところをうろうろしていた。彼は聖堂が閉まる前に、日曜日の「準備」をしておくという名目のもとに忙しく立ち働いていたのだ。一週間前、ブランダマー卿の行く手に立ちはだかったことを思い出して、できるだけ目につかないようにしていたが、その実、彼はあたかも偶然であるかのように卿に出会い、あんな振る舞いに及んだのは何も知らなかったからだと言い訳がしたくてたまらなかったのである。だがそんな言い訳の機会は都合よく訪れなかった。二人は天井に登り、教会事務員は扉口に鍵をかけようとしていた——ウエストレイは自分用の鍵を持っていたのだ——するとそのとき、誰かが身廊をこちらへやって来る音が聞こえた。

 脇に楽譜をどっさり抱えたミスタ・シャーノールだった。

 「やあ、あんたか!」彼は教会事務員に言った。「ずいぶん遅くまでいるんだな。自分で鍵を開けて入らにゃならんと思っていたのに。一時間前に帰ったんじゃなかったのかい」

 「今晩は片付けにいつもより手間どってね」彼は急に話をやめた。頭上の足場のどこかから微かな音が聞こえてきたのだ。彼は声をひそめて話しつづけた。「ミスタ・ウエストレイが卿を案内してるんでさあ。今屋根のところですよ。聞こえるでしょう」

 「卿だって?どこの卿かね。あのブランダマーの野郎のことか」

 「ええ、そう。でも野郎なんて言っていいんですかい。あの方は卿ですからね。だからわたしは卿とお呼びして野郎なんて言いませんよ。そんなに敵意をむき出しにして、あの方が何をしたって言うんです?どうしてここであの方を待ってパイプオルガンのことを話さないんです?もしかしたら太っ腹な気分になっていてパイプオルガンを修理するとか、あんたがしきりに話しているちっこい送風器を買ってくれるかもしれんじゃねえですか。どうしていつも歯をむき出すんですかねえ——いや、見せようにも、あんたには本物の歯がたくさん残っちゃいないから、こりゃあもののたとえっちゅうもんだがね——たまには他の人と同じようにしちゃあどうです?わたしが思うには、あんたは年寄りなのに若者ぶろうとしている。貧乏なのに金持ちぶろうとしている。そこがいけない。そのせいであんたはみじめな気分になり、酒でまぎらせようとする。わたしの忠告を聞いて、他の人みたいに振る舞いなさいよ。わたしはあんたより二十も年寄りだが、二十歳の時より遙かに人生を楽しんどるよ。今はお隣さんも連中の癖もわたしを楽しませてくれるし、パイプの味もよくなった。若いときゃさんざん馬鹿なまねをしでかすが、年をとりゃ、そんなこともない。あんたはわたしに遠慮なくしゃべるから、わたしもあんたに遠慮なくしゃべるよ。わたしは遠慮のない人間だし、誰もおそれるこたあないんだ。卿だろうが、野郎だろうが、オルガン弾きだろうがね。まあ、この老いぼれの忠告を聞くんだね。明るく構えて卿にお仕えし、新しいパイプオルガンを買ってもらいなさいよ」

 「くだらない!」ミスタ・シャーノールはジャナウエイの態度に慣れてしまっていて、腹も立てなければ注意も払わなかった。「くだらない!ブランダマーなんてどいつもこいつも大嫌いさ。ドードー鳥みたいに絶滅すりゃいいんだ。絶滅してないって保証はないんだけどね。いいかい、あの気取って歩くクジャク野郎は、あんたやわたしと同じくらいブランダマーを名乗る権利を持ってないんだ。この富というやつにはまったくむかつくな。今じゃあ教会や博物館や病院を建てることができない人間は価値がないと思われている。『みづからを厚うするがゆゑに人々なんぢをほむる』(註 詩篇から)金を持ってりゃひたすら賞賛され、なければ鼻も引っかけられん。ブランダマーなど全員墓に埋められてしまえばいい」彼は細いしゃがれ声をまたもや頭上の穹窿天井に響かせた。「経帷子の代わりに雲形紋章を巻き付けてな。あいつらの忌々しい紋章なんかにゃ石をぶつけてやりたいよ」彼は袖廊の窓高くに描かれた海緑色と銀色の盾を指さした。「日の照るときも、月明かりの差すときも、あれはいつもあそこにある。ここで満月の夜、コウモリに演奏を聴かせるのが楽しみだったんだ、あれがいつも張り出しをのぞきこんでいて、わたしから離れようとしないことに気づくまでは」

 彼はどさりと楽譜の山を座席に置くと聖堂を飛び出した。どうやら酒を飲んでいたらしい。教会事務員も同時にその場を抜け出した。大声で発せられた意見を屋根の上の二人に聞かれ、彼もそれに同調していると思われることを恐れたのだ。

 ブランダマー卿は聖堂扉口でウエストレイに別れを告げた。彼は仕事の都合でフォーディングに戻らなければならないと、お茶の誘いを断った。

 「別の日の午後、また聖堂を見せてください。よろしければ手紙で日取りをお知らせします。たぶんまた土曜になるでしょう。平日は今のところ用事が詰まっていますので」

 教会事務員ジャナウエイは聖堂からさほど離れていないガヴァナーズ通りにすんでいた。この名の由来は誰も知らなかったが、ドクタ・エニファーは革命が起きて、カランが議会派によって守られていたとき、この近所に軍司令官ガヴァナーが宿舎を構えたからではないかと考えていた。この通りは静かな二本の裏道をつなぐ通路の役割を果たしていたが、どちらの裏道よりも静かで、それでいてある種の快適さと安らぎが漂っていた。通りの両端には昔の大砲が据えつけられているため馬車は通ることができない。大砲は砲尾を地面に埋められ、砲口を天にむけ、がっしりした鉄の柱のように突っ立っていた。茶色い小石を敷き詰めた道は、この通りの中央を走る浅い石の溝にむかって緩やかに傾斜していた。家々はピンク色の塗料を塗るのがしきたりになっていて、そのあたりの特徴である鎧戸は、オランダの町を彷彿とさせる明るい色に輝いていた。

 鎧戸のペンキ塗りはもちろんガヴァナーズ通りではちょっとした大行事である。そこの住人のうち、少なからぬ人々が船乗りか、または漁業用小型帆船の持ち主で、幸運の女神が微笑んで無事に引退し、もはやペンキを塗るべき船がなくなると、今度は鎧戸やドアや窓枠がそれに取って代わることになる。割れ目から染み出す松ヤニや火ぶくれしたワニスの生暖かいにおいがガヴァナース通りに夏の再来をはじめて知らせる晴れた朝には、六十代、七十代、なかには達者に八十代を迎えた人々がペンキ入れと刷毛を手に、自分の住まいの木造部分に新たな装いを施す姿が見られるだろう。

 彼らは気だてがよくて、開けっぴろげで、生き生きとして、腰が大きく、真鍮ボタンの紺色のピージャケットを身につけている。無敵の喫煙家、つきることのない物語の紡ぎ手である彼らはジャナウエイを快く仲間うちに迎え入れて久しかった——彼らの考えでは、教会事務員と墓堀は見えざるものを知る専門家みたいなもので、近い将来最後の航海に出る際、いや、なかにはすでに船首に出航旗を掲げている人もいるのだが、この航海の際には、水先案内人を勤めてくれるのだから、なおのこと彼は歓迎されたのだ。

 ごろ石のあいだから生えている銀梅花が家の並びの真ん中に立つ小屋の正面に丹念に這わせられていて、ドアに掛かる真鍮の板は旅人と何も知らない人のために「T・ジャナウエイ、寺男」が中に住んでいることを教えてくれた。ブランダマー卿とウエストレイが別れてから二時間ほどあとの土曜日午後八時頃、正面を銀梅花に覆われた小屋のドアが開けられ、教会事務員が敷居に立ってパイプをふかしはじめた。中からは陽気な赤みを帯びた光があふれ、料理のにおいがぷんと漂いだした。ミセス・ジャナウエイが夕食の支度をしていたのである。

 「トム」と彼女は呼びかけた。「ドアを閉めてご飯にしましょう」

 「ああ」と彼は答えた。「すぐ行くよ。でもちょっとだけ待ってくれ。こっちに歩いてくるのが誰だか、確かめたいんだ」

 よそ者と一目で分かる男がむこう端から通りに入りこんでいた。半月が出て、その明かりで男が家を探しているのが分かった。男は道を左右に横切りながら、ドアに記されている番号をのぞきこんでいた。近づくにつれ、教会事務員は男が痩せていることや、ゆったりしたコートかケープを羽織っていること、それが夕方の海風にひらひらとはためいていることに気づいた。次の瞬間ジャナウエイはよそ者がブランダマー卿であることを知り、じゃまにならぬように本能的に一歩退いた。しかし開いたドアがとっくに通行者の注意を引いていた。彼は立ち止まり、朗らかにその家の主に挨拶した。

 「すてきな夜だね。でも空気が冷たくて、お宅のぽかぽかした暖かい部屋がとても心地よさそうに見えるよ」彼はしゃべりながら教会事務員の顔を思い出し、こうつづけた。「おや、わたしたちはすでにお会いした仲ですね。一週間前、聖堂でお目にかかりましたよね」

 ミスタ・ジャナウエイは予期せぬ出会いに少々たじろぎ、しどろもどろの挨拶をした。ブランダマー卿を聖歌隊席に入れまいとした、あの出来事はまだ記憶に新しく、彼は泡を食って弁解しようとした。

 ブランダマー卿はにっこりと好意的な笑みを浮かべた。

 「私を止めようとしたのは当然です。そうしなければ職務怠慢ですからね。礼拝が進行中とは思わなかったのです。さもなければ入ったりしなかったでしょう。あのことは気になさらないでください。これからもカラン大聖堂に行ったときは、席に案内してくださいよ」

 「あなたの席は探す必要がありませんや、御前様。参事会員パーキンと同じように、ちゃあんと決まってるんで。裏側に紋章がくっきりと描かれとります。ご心配には及びません。みんな内務規定に定めてあるんです。御前様が席にお着きになるときは、主教様のときと同じ敬礼をいたします。『二回腰をかがめること。職杖は右手に持ち、左手を添えること』これ以上丁寧にはできねえんですよ。というのは三回礼をするのは皇族に対してだけなんで。わたしが勤めているあいだ、皇族なんて一人も聖堂に来たことがありませんがね——それだけじゃないんです。覚えていらっしゃらねえでしょうが、先代のブランダマー卿もあなたのお父様とお母様が埋葬された日から、お出でになったことがございません」

 ミセス・ジャナウエイは夕食テーブルを拳でたたいた。彼女は夕ご飯ができたと言ったのに、戸口に立っておしゃべりをつづける夫にあきれていた。しかし会話を聞いているうちに、しだいに見知らぬ男の正体が明らかになり、カランの誰もがその名を口にする人物を見たいという気持ちを抑えることができなくなった。彼女は戸口へいってお辞儀をした。

 ブランダマー卿はコートに重ねたはためくケープを左肩越しに後ろへ放った。教会事務員にはその仕草が外国人ぽく思われ、日曜の夜、なめるように見ている雑誌、イラストレイティド・ロンドン・ニュースのイタリア・オペラの板目木版画を頭に浮かべた。

 「もう行かなければ」訪問者は身震いして言った。「あなた方をここに立たせておくわけにはいきません。今夜はやけに冷えますからね」

 そのときミセス・ジャナウエイは急にむこう見ずな気分におそわれた。

 「中に入ってしばらく暖まっていかれてはどうです」と彼女は口をはさんだ。「料理の匂いさえお気になさらなければ、火も燃えていますから」

 教会事務員は妻の大胆さに一瞬震え上がったが、ブランダマー卿はさっそく招待を受け入れた。

 「ありがとうございます。列車が出るまでしばらく休ませてもらえるととても助かります。料理の匂いがするからといって謝ることはありませんよ。すごく食欲をそそるじゃありませんか。特に夕食の時間には」

 彼はまるで夜の食事はいつも質素で、豪華な晩餐など生まれてこのかた聞いたこともないというような話し方をした。五分後、彼はジャナウエイ夫婦とテーブルに着いた。テーブルクロスは荒い手織り布だったが清潔だった。ナイフとフォークは古い緑の柄がついており、主料理は牛の胃だったが、客は食事を大いに楽しんだ。

 「人によっちゃあハチノスやセンマイがうまいなんて思っているのもいますがね」教会事務員は空になった皿を見ながら思いにふけるように言った。「しかしわたしの好みから言えば、ミノにはかないませんな」彼が大胆にも料理に対する私見を披露したのは、客が目の前のごちそうを心ゆくまで食したとき、天の邪鬼でもないかぎり、どんな主人も感じる満足感に促されてのことだった。

 「そうですとも」とブランダマー卿は言った。「何と言ったってミノが最高ですよ」

 「胃袋そのものも大事ですけど、料理法も同じくらい大事なんですよ」ミセス・ジャナウエイは自分の腕前を無視されたと思い、腹を立てて言った。「最高の胃袋があっても料理が下手じゃどうにもなりません。作り方はいろいろあるんですが、ミルク少々とネギで作るのがいちばんだと思います」

 「それに勝るものはありませんね」ブランダマー卿は同意した——「それに勝るものはありません」——そしてそれとなくこうつづけた。「メースの小枝を入れたことはありますか」

 ミセス・ジャナウエイはそんな料理法は聞いたことがなかった。その点をつっこんで聞かれていたら、ブランダマー卿も知らないと言っていただろう。しかし彼女はこの次試してみると約束し、そのときはまたご一緒いただければ光栄なのですけれど、とこの尊敬すべき客人に言った。

 「土曜日の晩だけなんですよ、ミノが手にはいるのは」彼女は話しつづけた。「それ以上頻繁に出回らないのは、かえってありがたいんです。お金がありませんから。トマスみたいにいい旦那が持てて、わたしくらい幸せな女はいませんわ。お金のかからない人なんです。飲むのはお茶だけなんですよ、御前様。でも土曜の夜は贅沢して、少しだけ胃袋料理を食べるんです。とても精がつきますし、夫は日曜日のおつとめがとても大変ですから、ちょうどいいんです。御前様が胃袋料理をお好みで、土曜日の晩またこちらにお出でになって、わたしたちに名誉をほどこしてくださるなら、いつだって準備してお待ちしていますわ」

 「ご親切なお招き、とても感謝します」ブランダマー卿は言った。「おことばに甘えさせていただきますよ。カランに来るのは土曜日がいちばん多いのですよ、というか、最近はたまたまそうなんですけど」

 「世の中にゃ貧乏で哀れな人間がおります」と教会事務員は考え深げに言った。「わたしら夫婦は貧乏だが幸せですよ。しかしミスタ・シャーノールは貧乏で不幸せです。『ミスタ・シャーノール』とわたしは言ってやるんです、『親父が十ペンスのビールを飲みながらよく言ったもんだ。排水口に押しこまれた貧乏と、そいつを踏みつける、木の義足の男に乾杯ってね。でもあんたは貧乏を排水口に詰めこまねえし、まして踏みつけもしない。いつも取り出して風にさらし、思い悩んで自分を悲しませている。あんたが悲しいのは貧乏だからじゃない。貧乏だと思ってそのことを口にしすぎるんだ。あんたはわたしらほど貧乏じゃない。ただやたらと不平が多いんのさ』ってね」

 「ああ、オルガン奏者のことですね」ブランダマー卿は尋ねた。「今日の午後、あなたと聖堂でしゃべっていたのは彼ではないですか」

 教会事務員はまたもやまごついた。ミスタ・シャーノールの暴言と、ブランダマー一族への呪詛が聖堂に響き渡ったことを思い出したのだ。

 「そうなんで。かわいそうにオルガン弾きはちょっと興奮してしゃべっとりました。ときどきあんな具合になっちまうんです。不満やら、それを紛らすビールのせいで。そういうときは大声を出すんですよ。あいつの並べた世迷い言がお耳に入ってなけりゃいいんですが」

 「ああ、とんでもない。ちょうど建築家と話しこんでいたんです」とブランダマー卿は言ったが、その口調からジャナウエイは、ミスタ・シャーノールの声が具合悪くも遠くまで届いていたことを知った。「何を言っているのかは分からなかったけど、ずいぶんいらだっているようですね。数日前に聖堂でおしゃべりをしましたよ。そのとき彼はわたしが誰か知らなかったんですけど。でもわたしの一族にあまりいい感情を抱いていないようでした」

 ミセス・ジャナウエイはこういうときは思慮あることばをさしはさむべきだと思った。「御前様にむかっておこがましいことを言うようですが、あの人のことはほっておかれるといいですよ。あの人は夫にむかっても同じように悪口を言うんです。オルガンのことで頭が変になっていて、新しいやつを買うか、少なくともカリスベリにあるような水仕掛けの送風器を買ってもらうのが当然だと思っているんです。無視してください。ミスタ・シャーノールの言うことなんか、カランの人は誰も気にしやしません」

 教会事務員は妻の分別に驚いたが、それが相手にどう取られるか不安だった。しかしブランダマー卿は優雅に頭を下げて、賢明な助言に感謝の意をあらわし、こうつづけた。

 「カランにおかしな人がいませんでしたか。自分は権利を剥奪されているが、本来はわたしの地位にいるべきなのだと考えていた人が——つまり自分こそはブランダマー卿であると考えていた人が」

 その質問はごくさりげなく発せられ、彼の顔は哀れむような笑みをかすかに浮かべていた。しかし教会事務員はミスタ・シャーノールの「気取って歩くクジャク野郎」とか、「本物のブランダマーなんてもういないんだ」などということばを思い出し、ひどくそわそわした。

 「その通りで」彼は一瞬間をおいて答えた。「御前様の前じゃこんな話ははばかられますが、そんなおかしな考えに取り憑かれた老いぼれもいました。そういや、ミスタ・シャーノールもあいつと同じ下宿に住んどります。きっと左巻きがうつったんですな」

 ブランダマー卿は無意識に煙草を取り出したが、女性がいることに気づいて箱に戻し話をつづけた。

 「おや、ミスタ・シャーノールと同じ下宿ですか。その話はもっと聞きたいですね。言うまでもありませんが、興味がありますから。名前は何というんです」

 「マーチン・ジョウリフですよ」教会事務員は間髪を入れず答えた。逸話を語るチャンスに、思わず熱心な口調になった。そしてウエストレイに語ったように、マーチンとマーチンの父、母、娘の物語を逐一ブランダマー卿に繰り返したのだった。

 夜もずっと更けた頃になって物語はようやく終わった。地元の警官がガヴァナーズ通りを幾度か巡回したが、遅いにもかかわらず明かりがついている窓を見て驚き、ミスタ・ジャナウエイの家の前に来ると立ち止まった。ブランダマー卿は汽車で帰る予定を変えたのだろう。カラン駅の改札口は数時間前に閉ざされ、支線を走るおんぼろ列車は車庫でその蒸気がまを冷やしていた。

 「おもしろい話ですね。それにあなたはお話が上手だ」彼はそう言って立ち上がり、コートを着た。「楽しいことには必ず終わりがあるのですが、お二人には近いうちにまたお会いしたいと思います」彼は夫婦と握手し、酒場から持ってきたビールのジョッキを、「排水口に詰めこまれた貧乏と、それを踏みつける義足の男に乾杯」と言って飲み干し、出て行った。

 その一分後、もう一度見廻りに戻った警官は、ゆったりしたコートを着てケープを軽く左肩にかけた中背の男とすれ違った。見知らぬ男は小唄を口ずさみながら元気よく歩き、地上のことなどすっかり忘れてしまったかのように、顔を上げて星と風の吹く空を見ていた。真夜中のガヴァナーズ通りによそ者がいるというのは、窓に明かりが灯っていることよりさらに驚くべきことで、警官は呼び止め、用むきを確かめようかと思ったが、そこまで強く出ようと決心するまもなく、足音は遠くに消えようとしていた。

 教会事務員は自己満足に浸り、話し手としての成功に得意になっていた。

 「ありゃあ、賢い、話の分かる人だよ」彼はそう言って妻と一緒に床に就いた。「いい話がどういうものか、ちゃんと知っていなさる」

 「いい気におなりじゃないよ、あんた」と彼女は返事した。「請け合ってもいいわ、御前様はあの話の中にあんたが話した以上のことを見て取っていらっしゃるんだから」

第十章

 ブランダマー卿の惜しみない支援のおかげで修復工事は拡充し、ウエストレイは一度ならずロンドンのサー・ジョージ・ファークワーのもとへ相談に出むかなければならなかった。ある土曜日の晩、そんな訪問からカランに帰ってきたとき、彼は自分の食事がミスタ・シャーノールの部屋に用意されていることを知った。

 「夕ご飯を一緒に食べてくれるだろうと思ったんだよ」とミスタ・シャーノールは言った。「どういうわけか分からないが、冬が始まり、日暮れが早くなると、いつも気が滅入るんだ。時間が経つと何でもなくなって、冬の夜長や暖かい暖炉の火は好ましいくらいなんだがね。もっとも十分な火をたけるくらい金があればの話だが。しかしはじめのうちはちょっぴり憂鬱になるんだ。そういうわけだから食事につきあってくれたまえ。今夜は暖かい火もあるし、きみのために特別に手に入れた流木もある」

 食事のあいだ、どうということのない世間話がかわされたが、オルガン奏者は何か別のことを考えているらしく、ウエストレイは一度か二度、相手がうわの空で返事をしているような気がした。実際彼は別のことを考えていた。というのも彼らが暖炉の前に落ち着き、ちらちらと揺らめく流木の炎にお決まりの賞賛のことばが呈されると、ミスタ・シャーノールはためらうように咳払いをしてこう切り出したからである。

 「今日の午後、どうも妙なことが起きたんだ。夕べの祈りが終わって帰ってみると、なんとブランダマーがわたしの部屋で待っているじゃないか。明かりも灯していなかったし、火も焚いていなかった。火は遅くに焚いたほうが、きみと暖かく過ごせると思っていたんだ。やつは窓辺の席の端っこに座っていた。くそっ、地獄に落ちろ!——(ミスタ・シャーノールが冒涜のことばを発したのは、そこがアナスタシアのお気に入りの席で、他の人が使うことは認めがたかったからである)——しかしわたしが入ってくると、もちろん立ち上がったよ。そして調子のいいことをとうとうとまくし立てるのさ。部屋に入りこんだことは心からお詫びする。ミスタ・ウエストレイに会いに来たのだが、残念なことによそにお出かけになっている。勝手だがミスタ・シャーノールの部屋でしばらく待たせてもらうことにした。ミスタ・シャーノールと是非、お話したいことが一つ二つあったのだ、ってな具合だよ。わたしはおべっかが大嫌いだということは知っているだろう。それにあいつがどんなに嫌いだったか——いや、嫌いかってことも(と彼は訂正した)。しかしどうも具合が悪くてなあ。ほら、彼はもう実際に部屋の中に入りこんでいたわけだし、人は自分の部屋にいるときは、他人の部屋にいるときみたいに不作法な真似はできないからね。それに明かりもつけず、火も燃やさず、わたしを待っていてくれたということで、気の毒したという気持ちも多少あった。もっともどうしてあいつが自分でガスの火を入れなかったのか、理由が分からんが。だから不本意ではあるが丁寧にお相手をしてさしあげたのだよ。で、さあ、これでやつを追い払えるぞと思ったときに、折悪しく家に一人残っていたアナスタシアがお茶を出してもいいかと聞きにきたというわけさ。分るだろう、わたしの苛立ちが。しかしやつにお茶を一杯いかがですと訊かないわけにもいかないじゃないか。まさかうんと言うとは夢にも思わなかったが、やつは招待を受けやがった。そんなわけで、なんてことだろう!われわれは旧知の仲みたいにお茶を飲みながら和気藹々おしゃべりしたってわけさ」

 ウエストレイは愕然とした。ミスタ・シャーノールはつい先日、ブランダマー卿の申し出を拒絶しなかったと彼を非難したばかりなのに、このお茶の会が示すように、憎しみと悪意の高邁な原則からまるで逸脱してしまったことがさっぱり理解できなかった。彼の人生経験はいまだにごく限られたものでしかなく、嫌悪や反感というものはたいてい現実的というより理論上のものにすぎず、個人的な接触において緩和されたり、すっかり消滅しがちなものであること——つまり憎しみの炎を燃え立たせつづけること、あるいは気持ちのいい態度で和解を求める人に面とむかって無礼なことを言いつづけるのはひどく困難であることが分からなかったのである。

 おそらくミスタ・シャーノールはウエストレイの顔に驚きを読み取ったのだろう。彼はいっそう弁解するような調子でこうつづけた。

 「それどころじゃないんだ。やつのせいでわたしはえらくやっかいな立場に立たされてしまった。確かに面白い話をする男だな。音楽について大いに語り合ったのだが、驚くほどこの方面に造詣が深いし、正しい趣味の持ち主だ。どこであんな教養を身につけたのか見当もつかない」

 「建築についても同じ印象を持ちましたよ」ウエストレイは言った。「聖堂を視察しはじめたときは先生と生徒という関係でしたが、視察を終えるころには、わたしよりも聖堂のことを詳しく知っているのじゃないかと、落ち着かない気持ちにさせられました——少なくとも考古学的なことに関しては」

 「ほう!」とオルガン奏者は無関心そうに言った。自分の体験を話したくてたまらない人は、他の人がどんなにわくわくするようなことを言っても、無関心な態度を取るものだ。「やつの趣味は異常に洗練されていた。前世紀の対位法の作曲家に精通していて、わたしの作品もいくつか知っているのさ。不思議なことがあるものだ。やつが言うには、どこかの聖堂で——どこだったか忘れたが——サーヴィスを聴き、あんまり感動したのでビラを見たら、シャーノール変ニ長調だったというのだ。われわれが話を始めるまで、わたしの作品だとは気づかなかったらしい。あのサーヴィスはもう何年もしまいこんだままだな。オクスフォードでギボンズ賞に応募したときの作品でね。グロリアの中にフーガを取り入れ、主音のペダル音で終わるんだ。きみも気に入るだろう。あれは探し出しておかなければならんな」

 「ええ、それは聴いてみたいですね」ウエストレイは強い関心があるからというより、話し手が一息入れるあいだ、間を持たせるためにそう言った。

 「聴かせてあげるとも——聴かせてあげるとも」とオルガン奏者はつづけた。「ペダル音がすばらしい効果を出していることが分かるだろう。それでわれわれの話題はだんだんとオルガンのことに移っていった。聖堂ではじめて彼に会った日にたまたまオルガンの話をしたんだ。もっとも普段はきみも知ってのとおり、わたしはオルガンのことは一言もしゃべらないことにしている。あのときはオルガンのことにさほど通じているようには思えなかったが、今じゃ知らぬことはないという感じだ。だからわたしは何をするべきか、自分の意見を言ったのだよ。で、ふと気がついたらやつが口をはさんできて『ミスタ・シャーノール、あなたのお話には大変関心があります。とても理路整然としていて、わたしのような門外漢にも理解ができます。ファーザー・スミスがはるか昔に作った、この美しい音色の楽器が壊れたまま、いつまでも放置されているのは嘆かわしいことです。聖堂を修復してもオルガンがなければ意味がありません。ですので修理の細目と、他にそろえるべき品目を一覧にして書き出してくれませんか。あなたの提案はすべて実行されるとお考えください。とりあえず、あなたがおっしゃっていたウオーター・エンジンと新しい足鍵盤をすぐ注文して、費用をお知らせいただければと思います』わたしは呆気にとられてしまったよ。口がきけるようになったときには、彼の姿はもうなかった。わたしはどうすればいいのか、さっぱり判らなくなった。あの男はいけ好かないね。やつの申し出は冷ややかに拒絶するつもりだ。あんな男の恩を受けるなんてまっぴらだ。きみだってわたしの立場だったら断るだろう?すぐさま断固拒否の手紙を書くだろう?」

 ウエストレイは馬鹿正直な性格で、人の言ったことばをそのまま信じる傾向があった。彼はミスタ・シャーノールの自主独立の精神がいかに気高いものであれ、それがためにこれほど気前のいい寄付が断られるのはまことに残念なことだと思った。そしてオルガン奏者の決心を翻させようと、思いつくかぎりの反論を必死になって繰り広げ、かき口説いた。この申し出は善意から出たものである。ミスタ・シャーノールはブランダマー卿の人柄をきっと誤解しているのだ——ブランダマー卿には下心があるというミスタ・シャーノールの考えは間違っている。善意以外のどんな動機があり得るだろうか。それにミスタ・シャーノールがどれほど個人として拒否しようとも、あれだけ修理の必要が歴然としたオルガンなのだから、結局は直されるに決まっているではないか。

 ウエストレイは熱心に語りかけ、自分の雄弁がミスタ・シャーノールに及ぼした効果を見て満足した。議論によって相手の考えを改めさせるというのは極めてまれにしか起きないことで、自分の組み立てた議論が、少なくともミスタ・シャーノールの決意に影響を与えるくらい説得的であったことを知り、彼は得意になった。

 うむ、きみの言うことにも一理あるかもな。考え直してみよう。今晩は断りの手紙を書かないよ。断るのは明日だってできる。とりあえず新しい足鍵盤を手配し、ウオーター・エンジンを注文しよう。カリスベリでウオーター・エンジンを見て以来、いつかはカランにも一つ必要だと思っていたんだ。あれは是非とも注文しよう。ブランダマー卿に払ってもらうか、修復基金全体から差し引いてもらうかは後で決めればいい。

 この結論は最終的決定ではないとはいえ、確かにウエストレイの説得の勝利だった。しかし当初ブランダマー卿の申し出を一切受け付けまいとしたミスタ・シャーノールの愚直な自主独立を咎めたのは、はたしてどの程度正しいことだったのだろうと、いささか疑問に思われるところもあり、心から満足したわけではなかった。ミスタ・シャーノールがこの件にためらいを感じているなら、自分、ウエストレイはそのためらいを尊重すべきではなかったか。あまりにも説得力のあることばでそれを押さえこんだのは正しいことへの干渉ではなかったろうか。

 彼の疑いはミスタ・シャーノール自身がこの精神的ジレンマに激しく悩まされていたという告白を聞いても鎮まることはなかった。オルガン奏者はこの難問に心をかき乱され、神経を静めるためにウイスキーをコップになみなみと注いだと打ち明けたのである。同時に彼は二三冊のノートと大量の紙切れを棚から降ろし、彼の前のテーブルに広げた。ウエストレイは思わず何だろうとそれらを見つめた。

 「本気でまたこれを調べなければならんよ」とオルガン奏者は言った。「最近はえらく怠けていたんだが。これはマーチン・ジョウリフが残した大量の書類とメモだ。かわいそうにミス・ユーフィミアはこれを調べる勇気がなかったんだ。そのまま焼き捨てようとしていたのを、わたしが『おや、そんなことをしちゃいけない。わたしによこしなさい。調べて保管する価値のあるものが混じってないか見てあげよう』と言ったのだ。それでこれを手に入れたのだが、なんだかんだ邪魔が入って、ろくに調べちゃいないのさ。死んだ人の書き物に目を通すのはいつだってわびしい気持ちにさせられるが、生涯をかけた仕事として、これが残されたすべてだというときは、そのわびしさはひとしおだよ——マーチンの場合は失われた仕事とでもいうんだろうな。日の光が見えはじめたちょうどそのとき、あの世に召されたんだから。『我らは何をも携へて世に来たらず、また何をも携へて世を去ること能はざればなり』(註 テモテへの手紙から)このことばが頭に浮かぶとき、わたしは金や土地のことよりもささやかなもののことを考える。お金よりも大切にしていた恋文とか、その人の死と共に手がかりが失われた証拠品とか、戻ってきて片付けるはずだったのに、戻ることなく未完に終わった仕事とか、もっと言えば、気に病んでいた未払いの請求書とかね。死はすべてを変貌させる。ありきたりのものを哀切なものに変えるんだ」

 彼は一瞬、間を置いた。ウエストレイは相手が急に感傷的になったことに驚き、何も言わなかった。

 「うむ、わびしいものだよ」オルガン奏者が再びつづけた。「この書類に書いてあるのはみんな雲形紋章——海緑色と銀色のことなんだ」

 「すっかり頭がいかれていたんでしょうね」ウエストレイは言った。

 「他の人ならそう言うだろうが」オルガン奏者は答えた。「しかしいろいろ考えると、この中には単に狂気とばかりはいえないものがありそうな気もするんだ。今はそれくらいしか言えないが、生きていればそのうち真相が分かるだろう。このあたりには奇妙な言い伝えがあってね。いつ頃から言われはじめたのか知らないが、ブランダマーの家系には謎があるというのだ。家督を受け継いだ者には、実はその権利がないといわれている。それだけじゃない。大勢の人が謎を解こうとして、中には有力な手がかりをつかんだ人もいたそうだが、しかしあと一息というところで、何かが彼らの命を奪うんだ。マーチンに起こったのはそれなんだよ。わたしは彼が死んだ日に彼と会った。『シャーノール』と彼はわたしに言ったよ。『おれがあと四十八時間生きられたら、あんたは帽子を脱いで、おれに御前様って言っているかもしれないぜ』ってね。

 しかし彼も雲形紋章にはかなわなかった。彼は死ななければならなかったのだ。だからわたしがそのうちぽっくり行ってしまっても驚いちゃいけないよ。ま、そういうことさえなければ、真相を探り当て、近い将来、ここにちょっとした変化を引き起こして見せるがね」

 彼はテーブルの前に座り、しばらく紙束を見ているふりをした。

 「マーチンも気の毒だったな」彼はまた立ち上がり、棚を開け酒瓶を取り出した。「きみも飲むだろう、ええ?」とウエストレイに訊いた。

 「ありがとうございます。でも結構ですよ、わたしは」ウエストレイはその細い声にこめられるかぎりの軽蔑に近い響きをこめた。

 「一口だけだよ——飲みたまえ!わたしは一口だけ飲まなければやってられん。この紙切れを調べるとひどく疲れるんだ。こいつを読むのは思っていた以上に重要なことなのかもしれん」

 彼は大コップに半分ほど酒を注いだ。ウエストレイは少し躊躇したが、良心と幼少時のピューリタン的教育が彼に口を開かせた。

 「シャーノール。それは捨ててしまいなさい。その酒瓶はあなたを誘惑する悪魔ですよ。男らしく捨ててしまいなさい。あなたを見ていると黙っていられないのです。堕落していくのを腕組みしてじっと見ているわけにはいかないのです」

 オルガン奏者は素早い一瞥を彼にくれ、生の酒を大コップになみなみと注いだ。

 「いいかね。最初はグラスに半分だけのつもりだったが、今はまるまる一杯飲もうと思う。忠告に感謝してな!堕落していくか!その横柄な態度もろとも地獄に堕ちろ!礼儀正しい口がきけないなら、誰か別の人の部屋で夕飯を食えばいい」

 ついかっとなったウエストレイは冷静な批判という観覧席から悪口合戦という闘技場に降りてしまった。

 「ご心配なく」ウエストレイはとげとげしく言った。「二度とお付き合いすることはありませんから安心なさい」彼は立ち上がり、ドアを開けた。出て行こうとむきを変えたとき、寝室にむかうアナスタシア・ジョウリフが廊下を通った。

 彼女が通り過ぎるのを見てミスタ・シャーノールはいっそう頭に血が上ったらしい。彼は手ぶりでウエストレイにじっとしているよう伝えると、ドアを閉め直した。

 「糞食らえ!」と彼は言った。「きみを引き留めたのは、これを言うためだ。糞食らえ!ブランダマーなんか糞食らえ!みんな糞食らえ!貧乏なんか糞食らえ!裕福も糞食らえ!オルガンのためだろうがなんだろうが、あいつの金なんか触るのもいやだ。さあ、出て行っていいぞ」

 ウエストレイは上品に育てられ、口汚く罵られたり、下品で無礼な個人攻撃を受けることには慣れていなかった。野卑な形容詞、現代の作法ではしばしば大目に見られる「えげつない」とか「胸クソ悪い」といった表現、まして忌まわしい呪いことばには生まれつき身をすくませる質だった。だからミスタ・シャーノールの悪口は彼を深く傷つけたのである。動揺したまま寝床に就き、取り返しのつかないまでに友情が壊れたことを悲しみ、不当な非難に憤慨し、それでいてこうしたことがわが身に降りかかったのは、己の不注意のせいではなかったかと自責の念にかられ、まんじりともせず夜の半分を過ごした。

 朝になっても気分はさわやかにならずしょげ返っていたのだが、朝食の最中に太陽が輝きだし、彼はより悲観的でない方向で自分の置かれた状況をとらえはじめた。ミスタ・シャーノールとの友情は修復できないほど壊れてはいないかも知れない。もしも壊れてしまったとしたら残念だ。彼はその生活態度の欠点にもかかわらず、老人が好きになっていたからである。全面的に非難されるべきは、彼、ウエストレイのほうだった。他人の部屋に呼ばれておきながら、その人にむかって説教したのだ。青二才の彼が老人である相手に説教したのだ。それが善意のなせる行為であったことは本当である。つらいけれども義務だと思ってしゃべったに過ぎない。しかし言い方がまずかった。あまりにも押しつけがましかったのだ。話し方に思慮を欠いたため、もっともな忠告があだになってしまった。はねつけられることは覚悟の上で謝ろう。下に降りてミスタ・シャーノールに謝罪し、必要ならもう一方の頬もぶたれてやろう。

 良き決断はそれを実行する固い意志を伴う場合、乱れた心に幾分かの落ち着きを回復せずにはおかないものだ。良き決断がその穏やかな効き目を失うのは、一定間隔で繰り返す悪行と後悔の恐るべきシーソーが停まってしまい、心がもはや生における不変の正しさの可能性を信じられなくなったときである。このシーソーは必ず漸を追って均衡を失うものなのだ。悪への傾きがますます優勢になり、美徳への回帰はますますまれに、かつ短くなる。そのあとは神を敬う心の持続しないことにあきらめを覚え、良き決断は単なる心の反射運動となって慈悲深い影響力をなくし、心に平安をもたらすことがなくなるのである。こうした状態は中年より前に生じることはまれで、ウエストレイは若く、ことのほか良心的であったから、高尚な意図を抱くと、胸の中に強い落ち着いた気分がじわりじわりと広がっていった。そのときドアが開いてオルガン奏者が入ってきた。

 かんしゃくの爆発と一夜の深酒がミスタ・シャーノールの顔にその跡を残していた。表情はやつれ、心臓が弱いせいでできている目の下の隈はいちだんと黒く、いちだんとふくれあがって見えた。決まり悪そうに中にはいると、足早に建築家に近づき、手を差し出した。

 「許してくれ、ウエストレイ」と彼は言った。「昨日の晩ははしたない口をきいてしまった。きみの言ったことは正しいよ。きみに敬意を払う。もっとずっと前からきみのように諭してくれる人がいたらよかったんだが」

 差し出された手はそうあるべきほど清潔ではなかったし、やかましい目で見れば爪もきちんと切られていなかったが、ウエストレイはそんなことに気づきもしなかった。震える老人の手を取り、無言のまま暖かく握り返した。彼は口がきけなかった。

 「われわれは仲よくしなければならんね」少し間を置いてオルガン奏者は言った。「仲よくしなければならんね。というのは、わたしはきみを失うわけにはいかないからだ。つきあいは長くないが、きみはこの世でたった一人の友達なんだ。あきれた告白だとは思わんかね」彼は力なくか細い声をあげて笑った。「この世に他に友達はいないのだ。昨日の晩言ってくれたことはいつでもまた言ってくれ。忠告は多ければ多いほどいい」

 彼は腰をおろした。これ以上、場に緊張感が漂うことに耐えられず、会話はぎこちないながらも、より個人的でない事柄に移っていった。

 「昨日の晩、話したいことが一つあったんだ」とオルガン奏者は言った。「気の毒にミス・ジョウリフは金に困っている。そんなことはわたしには一言も——誰にも言おうとしないが——しかしわたしはたまたまそれが事実であることを知っている。本当に困っているんだ。慢性的な金欠状態。われわれもみんなそうだが、彼女の場合は深刻だよ——壁際に追いつめられ、身動きもならん。彼女を苦しめているのはマーチンの最後の借金だ。生き血を吸い取る商人どもがうるさく彼女につきまとうが、彼女はやつらにくたばっちまえと言ってやる勇気がない。もっとも彼らだって彼女には一銭だって返す責任がないのは知っているのさ。彼女はマーチンの借金が返せないかぎり、あの花と毛虫の絵を持っている権利がないと考えている。あれを売れば金になるからね。覚えているだろう、ボーントン・アンド・ラターワースが五十ポンド払うと言ったことを」

 「ええ、覚えていますよ。馬鹿な連中だ」

 「まったく馬鹿な連中だよ」とオルガン奏者は答えた。「しかし現にそういう申し出があったとなると、われらが気の毒な女主人は結局絵を売ることになるだろう。『そのほうが彼女にとってはいい』ときみは言うだろうし、常識がひとかけらでもあれば、五十ポンドでも五十ペンスでも、とっくの昔に売り払っていただろう。しかし彼女には常識なんてないし、あれを手放すとなれば彼女は自尊心をずたずたにされ、苦悩のあまり熱を出すに違いない。そこでわたしは、いくらあれば急場をしのげるか、手を尽して探ってきたんだが、たぶん二十ポンドもあれば切り抜けることができると思うんだ」

 彼はウエストレイが口をはさむことを半ば期待しているかのようにしばらく黙っていたが、建築家が何も意見を言わないので、次のようにつづけた。

 「分からなかったんだよ」彼はおどおどと言った。「きみがここに長く住みつづけ、こうした話にも強い関心を抱くようになるかどうか。わたしは自分で絵を買い取ろうと思っていたんだ。ここに置いておけるように。ミス・ユーフィミアにお金を贈り物として渡すのはだめなんだ。絶対受け取ろうとしないからね。彼女のことはよく知っているから分かるのさ。でも絵と引き替えに二十ポンドを差出し、これからもずっとここに置いたままで、お金ができたときに買い戻せるんだと教えてやれば、天の恵みとその申し出に飛びつくだろう」

 「そうですねえ」ウエストレイは疑わしそうに言った。「騙そうとしているなんて思われやしないですか。他の人が五十ポンド出すと言っているのに、二十ポンドで絵を売らせるのは、ちょっと考えるとなんだか変な気がしますが」

 「いや、そんなことはない」オルガン奏者は答えた。「ほら、これは本当の売買じゃない。彼女を助けるためのほんの口実に過ぎないんだから」

 「ご丁寧にわたしに意見をお求めくださいましたが、思うに、それ以外の点では問題はないと思います。それにミス・ジョウリフのことをそんなに気にかけていらっしゃるなんて、とても立派だと思います」

 「ありがとう」オルガン奏者はためらいがちに言った——「ありがとう。そう取ってくれると思っていたよ。もう一つちと困っていることがあるんだ。わたしは赤貧洗うが如しでね。しみったれみたいに一銭も使わず暮らしているが、しかしそれは使おうにも金がなくて、貯金もできないからなんだ」

 ウエストレイはミスタ・シャーノールがどうやって二十ポンドという大金をかき集めるつもりなのだろうと、さっきから不思議に思っていたのだが、それについては何も言わないほうが賢明だろうと判断した。

 そのときオルガン奏者は意を決して本題に切り込んでいった。

 「どうだろう。きみ、一緒に買う気はないかね。わたしは預金口座に十ポンドある。きみがもう十ポンド出してくれたら、絵を共同購入できる。ミス・ユーフィミアはそう遠くない将来、きっと買い戻そうとするから、いずれにしろたいした出費じゃないと思うが」

 彼は話をやめてウエストレイを見た。建築家はぎょっとした。彼は慎重かつ用心深い性格で、生まれつきの貯蓄癖は、いかなる不必要な出費も厳しく咎められるべきだという信念と織り合わさって、いちだんと強固なものにされていた。聖書が彼にとって来世の礎であるように、細かく家計を記録し、どんなに少額であっても金を貯金にまわすことが彼にとってのこの世の礎だったのである。注意して生活を切り詰めたおかげで、給金は少ないながら、鉄道会社の社債券にすでに百ポンド以上の投資ができるほどになっていた。半年ごとのわずかな利息小切手の受け取りをひどく大切に保管し、「グレート・サザン鉄道」のレターヘッドの入った封筒に、ある種の威厳と金銭的安心感を見いだしていた。これはときどき株主総会の代理委任状や告知を彼に送り届ける封筒だった。最近預金通帳を調べたところ、もうじき新たに百ポンドを投資に回せそうなことが分かり、彼は胸にいっぱいの希望を抱いて、ここ数日のあいだ、どの株を選ぶべきだろうかと思いを巡らしていたのである。一社の社債に大金をつぎこむことは資産運営上好ましくないと思われたのだ。

 資産をはなはだ磨り減らすこの突然の提案はすっかり彼を狼狽させた。それは確かな担保もなしに十ポンドを貸し与えるようなものだった。まともな人間ならこんなへたくそな絵が担保になるとは誰も考えはしない。ぶよぶよした緑の毛虫は朝食のテーブル越しに見たとき彼をあざけって身をくねらせたように思えた。ミスタ・シャーノールの頼みを断ることばが喉元まで出かかった。お偉方が金を貸すのを断るとき、誰もが使う同情のこもった、しかし裁判官のように断固たる調子のことばが。そうした機会にとりわけよく使われる、悲しげだがきっぱりした口調というものがある。それは借り手に、金を出したいのはやまやまだが、道徳的高みに立って判断するなら、今のところ断らざるを得ない、という趣旨を伝えるはずのものである。公共の福利のことを考えなくてすむのなら、すぐにでも頼まれた額の十倍だって出すのだが。

 ウエストレイはこれと同じようなことを言おうとしていたのだが、オルガン奏者の顔を一瞥し、そのしわの中にこの上なく痛ましい不安が刻みこまれているのを見て、決心を揺さぶられた。彼は昨夜のけんかのこと、そして今朝、ミスタ・シャーノールが謝罪し、彼より年若い男の前で謙虚に振る舞ったことを思い出した。彼は二人のよりが戻ったことを思い出した。一時間前、よりが戻せるなら喜んで十ポンド払おうと思ったではないか。友情が回復した感謝のしるしに、この貸し付けにはやっぱり賛成したほうがいいのではないか。考えてみたらあの絵は立派な担保になるかも知れない。誰かが五十ポンドを払おうとしたくらいなのだから。

 オルガン奏者にはウエストレイの心の変化が分らなかった。ただ気乗り薄そうな最初の印象だけを心に留め、ひどくそわそわしていた——絵を買う動機がミス・ユーフィミアに対する親切だけだとしたら、不思議に思われるくらいそわそわと。

 「確かに大金だね。分っているよ」彼は低い声で言った。「きみにこんなことを頼むなんて、わたしもすごく嫌なのさ。でも、これはわたしのためにするんじゃない。わたしは今まで自分のために一銭だって物乞いをしたことはないし、これからも貧民収容施設に行くまでは、そんなことをするつもりはない。迷っているなら、すぐ答えなくてもいい。じっくり時間をかけて考えてくれ。ただできるものなら、ウエストレイ、助けて欲しいんだよ。今、絵をこの家からなくしてしまうのは何とも惜しい」

 熱のこもったその話し方はウエストレイを驚かせた。ミスタ・シャーノールは単に親切というだけでなく、何か企みを持っているのだろうか。あの絵はやっぱり価値があるのだろうか。彼は部屋の反対の壁に近づき、安っぽい花と毛虫をじっと見つめた。いや、そんなわけはない。この絵には逆立ちしたって価値はない。ミスタ・シャーノールがあとをついてきて、彼らは並んで窓の外を眺めた。ウエストレイはほんの束の間、迷いを感じた。人情と、そしておそらく良心も、ミスタ・シャーノールの願いに応じるべきだと彼に語りかけた。警戒と貯蓄本能は、十ポンドが手元の全資金の少なからぬ一部であることを思い出させた。

 雨の後の明るい日差しがさしてきた。路面には水たまりが光り、店の窓にかかるひさしには水滴の列がきらめいている。砂地の道は日に照らされて暖かい湯気を立てていた。彼らの下でベルヴュー・ロッジの正面ドアが閉まり、縁の広い麦わら帽に、プリント地のドレスを着たアナスタシアが、足取り軽く階段を下りていった。その輝かしい朝、二人の男が上の窓から見ているとも知らず、バスケットを抱え市場へさっそうと歩く彼女は、あらゆるもののなかでもっとも輝いて見えた。

 その瞬間ついに人情はウエストレイの頭の中から節約を追い出したのだった。

 「いいでしょう」と彼は言った。「是非二人で絵を買いましょう。ミス・ジョウリフとの交渉は任せます。今晩五ポンド紙幣を二枚お渡しします」

 「ありがとう——ありがとう」オルガン奏者は大いにほっとした。「いつでも都合のいいときに買い戻せるとミス・ユーフィミアに言っておくよ。彼女が買い戻す前にわれわれの一人が死んだら、そのときは生き残ったほうの所有物だよ」

 このようにしてその日、ミス・ユーフィミア・ジョウリフを一方の当事者とし、ミスタ・ニコラス・シャーノールおよびミスタ・エドワード・ウエストレイを他方の当事者とし、両者のあいだに名画売買の契約が成立したのである。緑の毛虫が隅にのたくる派手派手しい花の絵に、競売の木槌が鳴ることはなかった。そしてボーントン・アンド・ラターワース商会はミス・ジョウリフから、故マーチン・ジョウリフ所蔵の絵画は売ることができないという、丁寧な断りの手紙を受け取った。

第十一章

 年老いたカリスベリ主教が亡くなり、新しいカリスベリ主教が任命された。この人選は低教会派にいささか悔しい思いをさせた。というのは新主教のウイリス博士は確固たる信念を持つ高教会派だったからである。しかしその信心深さには定評があったし、キリスト教的寛容と相手を思いやる慈愛に満ちていることはじきに理解された。

 ある日曜日、朝の礼拝が終わってミスタ・シャーノールがボランタリーを演奏していると、一人の少年聖歌隊員がこっそりと小さな螺旋階段を上がり、オルガンのある張り出しに姿をあらわした。ちょうど彼の先生が幾つかの音栓を引っ張り出し、ストレッタに入ろうとしているときだった。オルガン奏者は階段を上る少年の足音を聞かなかったので、突然白い法衣を目にして飛び上がるほどびっくりした。手も足も一瞬持ち場を離れ、危うく曲が止まってしまうところだった。しかしそれは一瞬のこと。彼は気を取り直し、フーガをその論理的帰結へと導いていった。

 それから少年が口を開いて「参事会員パーキンさんから伝言です」とやりはじめたのだが、とたんに中断させられてしまった。オルガン奏者が彼に容赦のない平手打ちを見舞ったからである。「ボランタリーの演奏中にこっそり階段を上がってくるなと、何度言ったら分かるんだ。幽霊みたいに隅っこから出てくるから肝をつぶしたじゃないか」

 「すみません、先生」少年はべそをかきながら言った。「そんなつもりじゃ——まさか——」

 「まったくおまえは、まさかって真似をしてくれるよ」ミスタ・シャーノールは言った。「さあ、もうめそめそするな。若者の肩に分別ある頭は生えぬ、か。二度とやるんじゃないぞ。ほら、六ペンスやろう。伝言を聞かせてくれ」

 六ペンスはカランの少年たちがめったに手にすることのない大金で、この贈り物はギレアデの香油よりもすみやかに少年を慰めた。

 「参事会員パーキンさんから伝言です。聖具室でお話がしたいとのことです」

 「すぐ行くよ。楽譜を片付けしだい、すぐ行くと伝えてくれ」

 ミスタ・シャーノールは急がなかった。午後の演奏のために聖詩篇と典礼聖歌を机の上に開いておかなければならなかったし、朝の礼拝用のアンセム集をしまい、夕べの礼拝用のアンセム集を取り出す必要があったのだ。

 かつてこの教会には優れた楽譜集を買う余裕があった。ボイ(註 十八世紀英国の作曲家)の初版申しこみリストには——その人数の少なさにボイ博士が猛烈な屈辱を感じるリストだが——「カラン大聖堂主任司祭兼創設会員(六部)」という記載が今でも見られる。ミスタ・シャーノールは硫酸紙で装丁され、最大限余白をたっぷり取った、偉大なボイの楽譜をこよなく愛した。ページをめくるときの乾いた音も大好きだったし、簡略譜のように一度に九つの五線が読める、古風な音部記号も大好きだった。彼は記憶を確かめるために、一週間の曲目一覧を見た——ワイズ作曲「わが栄えよ、醒めよ」。いや、これは第二巻じゃなくて第三巻に載っているやつだ。間違った巻を取り出したぞ——この楽譜集はよく知っているのに何をしているんだ。背表紙の子牛の粗革がぼろぼろだ!さびのような赤い革くずが彼の外套の袖にくっついていた。これでは人前には出られぬと、さらにしばらく時間をかけてそれを払い落とした。参事会員パーキンは聖具室で待たされていらいらし、ミスタ・シャーノールがあらわれるなり、とげとげしい口調で挨拶した。

 「呼ばれたらもう少し早く来てもらいたいね。今は特に忙しいんだから。少なくとも十五分は待ったぞ」

 それこそミスタ・シャーノールが意図していたことだった。彼は主任司祭のことばに少しも嫌な顔をせず、ただこう言った。

 「失礼しました。十五分も経ってはいないと思いますが」

 「ふん、無駄話はやめよう。きみに伝えたかったのは、カリスベリ主教が来月十八日の午後三時に、この大聖堂で堅礼式を行うことになったということだ。われわれは聖歌隊つきの礼拝を行わなければならない。きみにはだいたいでいいから演奏曲案を提出してもらいたい。わたしがいいかどうか点検するから。特に注意すべきことが一つある。主教が身廊を歩くとき、それにふさわしい行進曲をオルガンで演奏しなければならないが——わたしがよく文句を言っている古臭いやつじゃなくて、本当に堂々とした、メロディの判り易いのにしてもらいたい」

 「ああ、それなら簡単ですよ」ミスタ・シャーノールはおもねるように言った。「ヘンデルの『見よ、英雄は還りぬ』ならぴったりでしょう。オッフェンバッハのオペラの中にも、手を加えれば使える曲がありますな。ちゃんと感情をこめれば実に耳に快い作品ですよ。フルオルガンで『死の舞踏』をゆっくり弾くこともできます」

 「ああ、『マカベウスのユダ』の中の曲だね」主任司祭は思いがけず相手が自分の意見に従ったので、少しだけ機嫌を直した。「ふむ、わたしの意向を理解しているようだ。それじゃこの件はきみに任せるよ。ところで」と彼は聖具室を出るとき振り返って言った。「さっき礼拝の後で弾いていた曲、あれは何かね」

 「ただのフーガですよ。カーンバーガーの」

 「そのフーガというやつばかりを演奏しないでもらいたいね。学問的見地からはどれもすばらしいことに間違いないが、大多数の人にはただ混乱しているようにしか聞こえん。わたしと聖歌隊が威厳を持って退出しようとするとき、後押ししてくれるというより足かせになっている。厳かな礼拝の最後にふさわしい悲哀と威厳のこもった曲がほしいのだが、同時に聖歌隊席を出て行くときに、足取りを合わせられる、リズムのはっきりしたやつがいい。こんなことを言っても気を悪くしないでくれたまえ。だがオルガンの実用的な側面が最近は非常になおざりにされている。ミスタ・ヌートが礼拝をするときはどうだっていいが、わたしのときは頼むからフーガはやめてくれ」

 カリスベリ主教のカラン訪問は重大事件で、ある程度の事前の計画と準備を必要とした。

 「主教にはもちろんわたしたちと昼食をしていただかなくては」ミセス・パーキンが夫に言った。「あなた、もちろん昼食にお誘いになるわね」